作品名: 牛泥棒(オックス・ボー事件) -


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お名前: 矢端想   
ヘンリーフォンダの映画だ、と思って観ましたが、そういうことでもなかったですね。
観客も事件に立会い感情移入するための、定点観測者としての役どころだったようです。
結局ここで何もできなかったフォンダは、その後「十二人の怒れる男」で見事、
仇をとったわけです。

DVD売ってるのをみつけて観ることができたのですが、こんな名作が埋もれているのは
実に残念なことです。
「正義の名のもとの力の行使」が持つ欺瞞というのは今、
極めて重要なテーマだと思いますけれども。
[2009年2月2日 2時19分20秒]

お名前: ウエイン命   
私も数十年前に深夜TVで一応観たような気になっていましたが、「クインキャノン」さんのご指摘
でリメイク版だったことを知りました。ようやくDVDで本物を観ることが出来ましたが、「映画は
娯楽」と決め込んでいる私としては「こう云う西部劇もありかなー」と云うのが正直な感想です。
西部劇(フツーのと云った方がよいのかも知れませんが)の常識として、カウボーイがあんなに考え
たり議論したりするのがまず不自然ですし、本当はこんな人もいたかもしれませんが、D・アンドリ
ュースなんか教養ありすぎですよ。問題の遺書にしても、翻訳のせいでしょうか、何か世界文学全集
でも読んでるような余りにも洗練されすぎた文章、それを下書きも推敲もなしに、しかもあの恐怖の
中で書くと云うのはね…。お話しが暗いと云うのは重々承知でしたが、画面も殆どスタジオ内での撮
影で空間と云えば夜の闇だけ、早く観終わって外に飛び出し深呼吸でもしたい心境でした。
到底「西部の王者」と同じ監督とは思えませんが、考えて見るとウェルマンには「廃墟の群盗」など
もありますからそんなに驚くことではないのかも、と云うより、作品歴(タイトルだけですけど)を
見ると実に幅広いジャンルに亘っていて一概に「こう云う人です」と云えそうにない感じを受けまし
た。「何でも来い」の、所謂、職人気質の監督さんでしょうか。
[2007年10月14日 6時9分34秒]

お名前: クインキャノン   
夙に名作って評判の作品だね。あっしは30年ぐらい前だったか、日本語吹き替えでテレビ放映された
のを見たよ。
といってもこの写真じゃなく、20世紀フォックス・アワーとかいう番組のためにリメークされたもの
らしくて、ロバート・ワグナー(H・フォンダの役)、キャメロン・ミッチエル(D・アンドリュース
の役)、レイモンドー・バー(タトリー少佐)なんかが出てたね。レイモンド・バーが憎たらしいもん
で、あっしなんかも見ながら義憤を感じて切歯扼腕したけど、あんまり役にゃあ立たなかったね。
まあ、あっしはこういう気の滅入るようなのは苦手だから、もう一度見ようたあ思わないなあ。
評判の割にゃあこれまで輸入されなかったらしいのが不思議だけど、上に書いたようにあっしなんざ見
に行きそうにないから、興行成績は疑問だったかも知れないね。
[2005年9月9日 12時14分8秒]

お名前: 上州の隠居   
長年の願いをDVDで観ることが出来た。80分の小品だが リンチに対して重い問題を提示して
いる。情況からすれば有罪と思われるが、裁判権を持たないポジ隊が処刑をしてしまう過ちを犯す
のは、法律との縁が遠かった開拓期における自己中心的な行動がさせたのでは。「落日の決闘」の
吊るしの正義とは対象的となっている。社会派西部劇の佳作である。
原作者のW・V・T・クラークは幼いころからネヴァタに住み この土地をこよなく愛した作家で
これが出世作(40年)となった。C・イーストウッドも好きな映画に上げており、W・ウエルマ
ンの作品に出た時、話をしている。興業的には惨澹たる成績だったのは ザナック夫人が「ひどい
じゃない。ダナとアンソニーをりんちさせるなんて!」と嫌ったため これは呪われて映画になる
とゆう噂が広まりごく限られた形でしか公開されなかったが、フランスで好評で 急いでニュヨー
クでリバイバル上映をしようとしたが 当らなかったとウエルマンは語っている。30日足らず
で撮影されたが、彼の場合はこうした撮りかたが一番うまくいくんだと、イーストウッドは語って
いる。(E/Mブックス NO.7 より)「奴らを高く吊るせ」は 続編かもしれぬ。
[2005年8月30日 13時21分55秒]

お名前: 在韓日本人   
昨日、都内某所でこの作品の上映があり、
なんとスクリーンでこの幻の名作を見る機会を得ました。
ただし日本語字幕なしだったので、小生の拙い英語力では、
会話の細かいニュアンスは掴めず、
ストーリーしか理解できませんでしたが。
貴重な体験でした。
[2005年3月10日 16時11分1秒]

お名前: 44-40   
クリント・イーストウッドは少年時代にこの映画を見て強く影響されたという。共和党員で
時に暴力も辞さない力強いヒーローを演じながら、彼がどこかしら「アメリカの正義」に
懐疑的なのは、ひょっとしたらこの映画によるところが大きいのかも知れない。

フランク・シナトラのために書かれ、ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ポール・
ニューマンが蹴った「ダーティ・ハリー」は、ちょうどこの映画の裏返しだ。犯人かどうか
はっきりしないのに、法の名の元に裁いてしまった相手が無実だった、というのが「牛泥棒」
なら、絶対犯人に間違いないのに、誰も法の名の元に裁けなくなってしまった相手を強引に
裁くのが「ダーティ・ハリー」だ。どちらも法にのっとった「フェア・ゲーム」の限界をあぶり
出す。合法が常に正義とは限らない。これはアメリカ社会の根幹にかかわる問題だ。

「牛泥棒」はどんなに名作でも、当時のアカデミー賞は作品賞へのノミネートにとどまった。
30年後の「ダーティ・ハリー」は無視され、「無法」者マニーの物語、「許されざる者」が作品賞
を受賞するまで、さらに20年の月日が必要となる。その「許されざる者」が結局西部劇だった
ことは興味深い。

イーストウッドは「ミスティック・リバー」を撮るにあたって、「牛泥棒」を再見したという。
しかし西部劇ではない「ミスティック・リバー」は、評価は高かったものの、演技賞受賞のみ
にとどまっている。
[2004年8月13日 20時51分2秒]

お名前: グリーンベイ   
ノスタル爺さん・・・お久しぶりです。この作品は痛快西部劇に反して、リアリステックな社会派
 西部劇として真面目なテーマに取り組んだ映画として評価されたり、又、冷厳なヒューマニズムに
 支えられたフロンテアの情熱がリアルにフイルムに収められた画期的な作品と言われながらわが国
 では未公開でした。この間の初見でその訳がよーく分かりました。この映画は、正に人間の内心の
 葛藤(良心の呵責)をテーマに描いた哲学的作品として見せている。輸入会社も躊躇ったでしょう。
 もしもあの頃、痛快西部劇として観ていたら「なんだこれは」と映画少年もガッカリしたに違いない。
 ノスタル爺さんがご指摘のように、殺されたリーダーが妻にあてた遺書をみんなに伝えるが、これが
 又、やるせないアンチ・クライマックスともなっています。
 思い出しましたが、曾野綾子さんが、聖書から引用してこんなことを紹介しています。「この地上で
 最大の復讐とは、復讐する相手に最大の善行を施すことだ」と。この映画を見終わって、すぐこの
 一説が脳裏をかすめたのでした。けだしこの作品は、西部劇と言うより傑作中の名画と言って良い。
[2003年6月2日 20時18分5秒]

お名前: マパッチ   
在韓日本人さま、はじめまして。ノスタル爺さま、横から失礼します。

『牛泥棒』は5月21日にWOWOWで放映されました。
「日本未公開作品」と銘打っていたのですが、児玉数夫さんの西部劇本では何度も傑作として
紹介されていたので(児玉さんの本では『牛泥棒オックスボウ事件』と表記)、てっきり一度
日本で公開されたものとばかり思っていました。フリッツ・ラングの『激怒』もリンチと群集
心理を扱ったものでしたね。二本続けて見ると面白いかも。
[2003年5月28日 2時38分38秒]

お名前: 在韓日本人   
ノスタル爺様。
実はこの作品、題名を知るのみで、まだ観たことがありません。
日本で公開されたことがあるのでしょうか?
TVで放映されたと何かで読んだ記憶があるのですが。何時頃でしょうか。
小生、目下海外暮らしなので最近の事情はわかりません。
[2003年5月27日 10時56分14秒]

お名前: ノスタル爺   
 物語は単純です。
 牧場主が三人の牛泥棒に殺されたという知らせが町に届き、自警団が組織され牛泥棒を
追跡します。町外れで野営している三人の男(ダナ・アンドリュース、アンソニー・クイン、
フランシス・フォード)を見つけた一行は、彼らを牛泥棒だと思って私刑します。
 追跡隊の中には、ヘンリー・フォンダのように私刑に否定的な者もいるのですが、
多数決(賛成21、反対7)で処刑が決定します。
 処刑した後で、牧場主は負傷しただけで生きており、真犯人も捕まったことがわかります。
 この作品のテーマは、ラストでヘンリー・フォンダが読み上げる、私刑で殺された男が妻へ宛てた
手紙(遺書)に全てが語られています。
「愛する妻よ、仔細はデイビスが話してくれるだろう。
 おれの苦痛は一瞬だが、彼らは終生、良心の呵責からのがれられまい。気の毒にさえ、
おれは思えてくる。
 掟というのは、法律書のことでもなければ、判事のことでも弁護士のことでも、
保安官のことを指すのでもない。
 掟とは、めいめいが心の中にもっている、善悪の見分けをつける良心のことなのだ。
 その良心こそが、ヒューマニティの真髄なのだ。
 その良心なくしては、文明というものもありえない。
 その良心を通して、われわれは神に触れることもできるのではないか。
 めいめいの人が、心の中に持っているささやかな良心、
それが最も尊いものなのだ」
 群集心理が持つ怖さ、心理学者のエーリッヒ・フロムは、これを“見えざる権威”への服従と
言っていましたが、現代社会でも似たようなことが発生しています。
 “見える権威”への服従より、命令の送り手の姿がなく、それに対する服従が服従として
自覚されないことほど恐ろしいものはありませんよ。
 
[2003年5月24日 17時59分53秒]

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