書込欄へ
ヘルプ
お名前: ウエイン命
「Two Rode together」を「馬上の二人」とはよく訳しましたよねー。蓋し名訳だと思います。監督
がフォードで、しかもコマンチにさらわれた白人の救出劇とあっては「続・捜索者」とされてもおか
しくないとことですからね。マカロニブームの前で本当に良かったと思いますよ。
アクション皆無の超地味な内容は、本来中学生には退屈なはずですが、私は何故か初めて観た時から
この映画が大好きで、一番館から場末まで追っかけました。それしてもウィドマークのキャバリース
タイル 、決まってましたね。砦に向かう途中、河辺で休憩するシーンで、ジミーから貰った葉巻の
香りを気持良さそうに嗅ぐなんでもない仕草も脳裏に焼きついています。出発する前にネッカチーフ
を結び直しますよね。眼を皿のようにして憶えて帰り、友達を集めて得意満面やって見せたものでし
た。
ところで「J.W.」さんがおしゃってる「西部劇の嘘への懺悔」とのご指摘は、私にとってまさに眼
からウロコものでした。フォードの作品を時系列的に観れば確かにそうなります。それでやっと分か
ったんですが、私は残念ながらフォードの作品は殆どリバイバルブームの中で観ており、製作順に観
れたのは「騎兵隊」以降のこと、「捜索者」よりこの映画を先に観ているほどなので、むしろ「ジョ
ン・フォードって何て思想的に節操のない人なんだろう」などと思っていたんですよ。「シャイア
ン」が何故ウェインじゃないのかと云うご意見がありますが、私はこの映画にもそう云う思いを持っ
てました。「シャイアン」への書き込みと重複しますのでくどくどとは書きませんが、当たってるか
どうかは別にして、また、「フォードってそこまで考えて映画作ってる人かなー」と云う思いは依然
としてあるんですが、私なりに納得することが出来ました。
[2007年10月13日 14時16分34秒]
お名前: marineflat
北朝鮮の拉致とダブって見てしまいました。
互いの文化を受け入れられない現実を描いているようにも思えます。
コマンチから救われた少年が、自分が白人であると気付いたときに吊るされるシーンには
やりきれない怒りと悲しさを感じました。
ラスト・シーン(のちょっと前)はハニー・ビーの保安官に対する最後の愛情表現だったのですね。
そして本当のラストには心が救われました。
[2005年4月14日 17時43分41秒]
お名前: 捨石喜市
ジョン・フォードはインディアンにずいぶん同情的で、ただの野蛮残酷な人種として描くことに
抵抗があったようですが、興行面からの注文で悪役として描かざるをえなかったのだろう、と私は
思っています。
戦闘場面はともかく、彼は決してインディアンが残忍非道に人を殺す場面を描いてはいません。
インディアンの非道は台詞で語られ、くすぶる煙で象徴的に描かれているのが殆どではなかったで
しょうか。インディアンは不気味で恐ろしい存在だと人々が無邪気に信じていた時代に作られた
「駅馬車」でさえそうでした。インディアン憎しに凝り固まった主人公ネイサンの「捜索者」でも
そうでした。「捜索者」と同じように、さらわれた娘を取り返しに行く話の「馬上の二人」にいた
っては「無理に取り返してもなあ……」という気分さえただよっていたように思います。
「黄色いリボン」ではあきらかにインディアンに同情した主人公が「馬がいなければ戦いにはなる
まい」とインディアンの馬を逃がしてしまいます。西部劇として最後のフォード作品となった「シ
ャイアン」は、酒場でインディアンの頭の皮を自慢げに見せびらかす男が出てきたりして、もろに
白人の野蛮さが描かれていました。インディアンが頭の皮を剥ぐのは、相手を勇者としてたたえる
意味もあったのでしょうが、白人がインディアンの頭の皮を剥ぐのは、ただ蛮勇をひけかすための
ものでしかありません。(シドニー・ポラックの「インディアン狩り」はそれを皮肉たっぷりに描
いたものでした)。
「捜索者」で彼はインディアン虐殺を描きたかったのでしょうが、時代がそれを許してくれませ
んでした。フォード作品で(はるか昔のものは知りませんが)インディアンが極悪非道・問答無用
のエイリアンとして描かれたものがないことが、アメリカの精神的道徳的再生を願う私のよりどこ
ろでもあるのです。実際、最近のアメリカはどうしちまったんでしょうかねえ……。
[2003年8月15日 16時39分45秒]
お名前: グリーンベイ
ワード・ボンドさん・・・今日は。・・・グリーンベイです。
お恥ずかしいかぎりです。カテイ・フラトーとリンダ・クリスタル似てますよね。「馬上の二人」を
再見し直ぐに「真昼の決闘」を頭に浮かべました。実はカテイ・フラトーについてノーマークでした。
今一度、「真昼の決闘」を確認しました。キャストだけでと言いつつ全編通して見てしまいました。
カテイ・フラトーよく見ると、貫禄ですね。良い女優です。「真昼の決闘」さすが、西部劇傑作の一
本です・・・。
[2001年1月19日 16時35分20秒]
お名前: J.W.
グリーンベイさん,ワード・ボンドさん映画についてじっくり考える機会をいただき、感謝です。
誰かも書いていますが,映画は優れていればいるほど,製作時の時代の風潮,考え方などを、
色濃く反映するものだと思います。
その眼でフォード晩年の西部劇を見なおしてみると、「バファロー大隊」では,西部開拓は白人
のみが行ったわけではないと、「馬上の二人」においては、白人社会にも他民族社会にも夫々
の文化があり,哀しみがあり,そこを行き来することの難しさを,描いたのではないでしょうか。
そして、ついに「リバティ・バランス」にいたって、新聞記者に”Print the Legend !"と言わせる
裏返しにアメリカ建国の神話の消滅を語る.....と自分の中で勝手にストーリーが完結して
いるのです。
だから、「シャイアン」の評価が実はいまだに出来ない部分もあるんです。誰か、シャイアン評
を、書き込んでくれないかな?
現実には、フォードは、モニュメントヴァレーのナヴァホ族の救世主的存在であり、アイリッシュなど
プア-ホワイトの描き方を見ても、弱者に対する同情心があるとは思いますが...
それはともかく、20世紀最後に、ジャッキー・チェンが「シャンハイ・ヌーン」を、クリント・イーストウッドが「スペース・カウボーイ」を作ったことは、なんだか21世紀の西部劇を暗示するようで興味深いと思うのは深読みでしょうか?
[2001年1月18日 10時24分0秒]
お名前: グリーンベイ
ワード・ボンドさん・・・今晩は。グリーンベイです。
この作品に対する見解ですが、JWさん、ワード・ボンドさん共通の認識のようですね。私も異存なし
です。最初、フオード監督も、黒沢明監督の晩年の作品、「まあだだよ」「夢」などに見られるように
衰えたかな・・・と、思ったものです。しかし、お二方のご意見を伺ってなるほどと納得した次第です
ハアハア・・・(苦笑)そうでしたリンダ・クリスタル「真昼に決闘」には出演してません。ラストに
駅馬車で発つとき窓から出す顔と「真昼の決闘」で彼女が、汽車で町を去る時やはり窓に顔が映ります
が、とても似てますので、勘違いしました。ご指摘有り難う御座いました。またA・デキンスンには、
そんな裏話が隠されてましたか。じつは、彼女の出演映画「殺しのドレス」(80)があります。この
映画のフアーストシーン・・・凄いフアックシーンで始まります。驚いたわけです。たしか美人コンテ
スト優勝から映画界入りしてますよね。そんなことから、どうして「リオ・ブラボー」なのと、ずーと
悩んでいたわけです。「リオ・ブラボー」は、彼女の初出演作品です。この件も、一件落着です。
色々有り難う御座いました。
[2001年1月17日 21時27分44秒]
お名前: ワード・ボンド
J.W.さん、グリーンベイさん、こんばんは!
ひと言で言うと深い映画ですね。この映画は公開前から楽しみで楽しみで、
公開と同時に渋谷に見に行った記憶があります。でも、その時ははっきり
言って期待外れでした。でも、年月が経ち、自分自身のフォード映画に対
する観方が深まるにつれ、フォードの意図したものが何となく分かるよう
な気がしてきました。J.W.さんがおっしゃるように、フォードは映像
作家としての総括期に入っていたのだと思います。今まで興行成績を優先
するあまり、描けなかったこと、描き足りなかったことが沢山あったこと
だろうと思います。自分の先が余り長くないことを考えると、それを描か
ずにはおれなかったのでしょう。リアルな西部は、それまでの西部劇で描
いてきたようにヒロイックなものでもないし、面白おかしいものでもない
というようなことをシニカルに(半ば自嘲的に)描いているのだと思いま
す。ですから、楽屋ネタのような、自分自身の作品の名シーンを揶揄する
かのようなシーンがあるのではないでしょうか。
余計なことですが、グリーンベイさんのご紹介にあった「真昼の決闘」は
リンダ・クリスタルではなくて、カティ・フラドーではなかったでしょう
か。同じラテン系美人で感じが似ていますね。
また、「リオ・ブラボー」がなぜ、アンジー・ディキンソンなのかという
点ですが、これは、フランク・シナトラとの関係ではないでしょうか。
ホークスもウェインもシナトラと交流がありましたが、シナトラ一家の、
ディーン・マーティンが起用される際、同じシナトラ一家で売り出し中の
アンジーを強く推薦したのではないかと思います。昔、何かで読んだ記憶
があります。
[2001年1月17日 18時58分19秒]
お名前: グリーンベイ
JWさん・・・今晩は。・・・グリーンベイです。問題映画のご推薦有り難う。今、精見したところです
見終わって感じることは、これがフオード作品かと思うぐらい、いままでの映画と違ってますネ。
初見の時は、フオード西部劇として見流していました。このたび、JWさんから、思慮深いご意見があ
りましたので、心して見ました。
まず、インデアンに連れ去られた白人婦女子の救出をテーマとした作品には、ジョン・ヒューストンの
「許されざる者」や「捜索者」がある。本編はドラマ性とリアルなアクションに乏しいが、心理学的ア
プローチに、確かに興味深いものがありました。至る所に、さりげなく「荒野の決闘」「駅馬車」の
シーンが出てくるのが面白い。ラストで保安官のイスに頼りのなさそうな新米保安官が座って入りのが
また可笑しい。中の酒場のカウンターが「荒野の決闘」のそれとそっくりでした。白人世界に戻った
リンダ・クリスタル(真昼の決闘)も良いし、シャーリー・ジョーンズもジーパンが似合ってました。
話は変わりますが、「リオ・ブラボー」でなぜアンジー・デキンソン起用なのか、未だに分かりません。
これはハワード・ホークスでしたっけ・・・。監督は女優の起用にも気を使うところでしょうネ。
最後に残る印象は、監督は一般白人社会を問題有りと捉えた作品を何故撮ったのか、またどうしてこの
様な作品撮らなければならなかったのか課題とします・・・・。
[2001年1月16日 23時52分24秒]
お名前: J
追伸、「馬上の二人)の書きこみで名前がJのみになってしまいましたが、J.W.です。
そうそう、もう1人、重要な出演者がいました。コマンチに弟を攫われ責任をかんじている姉に
シャーリー・ジョーンズが。ここでオルゴールが大事な役をするんですね。
また、彼女はシャツとパンツ姿で登場、フォードはこのスタイルが好きなんでしょうか?グリーンベイさん。
[2001年1月16日 13時47分14秒]
お名前: J
ジョン・フォードの「バファロー大隊」に続く、61年の西部劇であるが、一回
観ただけではその価値が判らない類の映画だろう。
世の中の評価も高いとはいえないが、私は何度か観ている内に、この作品は、
実はフォード西部劇の総決算シリーズ(「バファロー大隊」以後「シャイアン」まで
の4作を勝手に名づけたのですが)として重要なものではないかと思っています。
ストーリーは、昔コマンチに攫われた子供達を白人社会へ救出するというミッション
を、マーシャル(J.スチュアート)と騎兵隊中尉(R・ウィドマーク)とが受けることから
始まる。が、救出そのものは派手なアクションもなく、これが主題ではない。
開巻、いきなり、保安官がポーチの椅子に座り、長い足を前の柵に乗っけてリラックス
しているという「荒野の決闘」のアープと同じスタイルをみせて、先ずニヤリとさせます。
しかし、この保安官は月給100ドルでは暮らしていけないと、町中の店から上がりの
10%を供出させている堕落した、金がすべてといった男なのだ。これをアメリカの
良心ともいうべきジミ-が演じているので、なおさら、いやみが、強調される。
だから、最初に観た時は、こんな男を主人公にしてフォードはどうしちゃったんだろう
と誰しも不安に思う。
一方の主人公ウィドマークはこれまでの騎兵隊映画と同じく硬骨の正義漢を演じ
ホッとさせる。(ウィドマークは悪役のイメージが「アラモ」以来無くなりました)
砦のダンスシーン、川岸で休憩するところ、コメディ・リリーフの太ったアンディ・デヴァイン、
「幌馬車」にも出ていたクレッグ一家(ケン・カーチス、ハリーケリーJrが間抜けな兄弟役)、
「捜索者)のスカー酋長(ヘンリー・ブランドンがこの作品でも出演)、等などこれまでのフォード
タッチを残しつつも、この作品におけるフォードの真意は西部劇の”嘘”を懺悔することだった
という気がしてならない。
この映画のクライマックスは救出後にある。すっかりインディアン化した少年は、縄を解いてくれた
婦人を逆に刺殺し、縛り首のリンチにあう。女性の1人は、もう死んだものと思ってくれといって
戻るのを拒否するし、もう1人、酋長の妻となっていた女性(「アラモ」のリンダ・クリスタル好演)
は、偏見と蔑視に取り囲まれた白人社会よりは元の部落に戻りたいという。
「捜索者)のデビーは幸福な家庭に戻ったが、現実の西部では果たしてどうであったのか。
シニカルで堕落した保安官像の方が真実ではないのか。
ラストシーンには敢えて触れませんが、この映画によって私はますますフォードが好きになった。
[2001年1月16日 13時32分56秒]
※この作品についての発言をどうぞ。
作品名リストに戻る