大湯環状列石:Cなぜ「石英閃緑ひん岩」を配石に用いたのか? |
△集宮せき止め湖との関係 前述Aで考察したように、もし「関上・集宮・万座を結ぶ線より上流(いわゆる 大湯扇状地)は、"せき止め湖"であった」ことに関連して、 ア、諸助山岩体崩落以前から、このせき止め湖が出来ていたとすれば、配石の岩石は、 安久谷川一の渡り付近から運び込まれたものと推理される。 イ、しかし、〔51〕において指摘しているように、「十和田湖の原型(外縁)は、 約3万年前の十和田火山の大噴火と陥没(第一カルデラ)によってできたと 考えられている。……」ように、鹿角全般の地勢乃至地形は、この頃に成ったもの と考えられる。 と云うことは、諸助山岩体はその頃には崩落しており、崩落した岩石は普通に流下 していたものと思われる。 大湯環状列石扇状地や、いわゆる大湯扇状地の地層などを概観するとき、 このせき止め湖は、比較的新しい時代に出来た。つまりこの湖は、その後の 十和田湖の度重なる噴火の過程で、その火砕土石流によって出来上ったいった。 大湯環状列石が造られたときには、まだ湖としての佇まいを残していた、 と考えられよう。 したがって、配石の岩石は、集宮〜大河原辺りの、大湯川の河床から運び込まれた ものと推理出来る。 (H19.01.15)
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