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宗教を読む / 人は神になれるか

◆道徳の遂行
 私共日本人は、小さいときから父母や知人友人などから、処世術たる、いわゆることわざ的な 道徳律を教わってきている。 この道徳律について、特別に戒律として、あるいは法律として定めなくても、 これらの言葉(文言)の意味するところの、善悪(正負)については、 それなりの知識を有し、体得し、実行してきている。 例えば、食のことわざについては、当該ことわざの内容が正しい(適切)ものか、 正しくない(適切でない)のかは、当今の科学技術において証明されているので、 特別に法律(戒律)として規制しなくてもよい現状にある。
 しかして神(唯一)も、またその戒律も、時の経過と共に有名無実化していくとすれば、 後に残るのは儀式のみである。 人々は、形骸化された儀式たる造形集会に参加し、その多人数の醸し出す雰囲気に 酔いしれて、さも満足げな思いを抱いているのであろう。
 
 なお神道においては、(神の存在を人間の姿として心に念じつつ実態のないものとし) 祭式においては、神はあたかも現に神座に居られる如くに取扱い、奉仕することとしている。
 
 一神教の神の場合は、上位は神で下位は人々と云う構図である。 多神教の神々の場合は、神は人(又は人々)の周りに、あたかも、 当該人を取り囲むよう(包み込むよう)に存在していると解されている。
 神道では、周囲の神々の中には、善神も居り、悪神も居ると考えている。 悪神に惑わされたり、穢されたりしたときは、随時又は必要により、 祓え(禊)を受けたり、直日神(なおびのかみ)の加護を期待する。 即ち、「汚れたら洗えばいい」なのである。汚れていなければ良しとする。 人は、本能的にを指向して成長し進化しているからである。
 因みに、もし死の恐怖に怯えたり陥ったら、このようなときこそ自ら生への努力 − 生きざま −  そのものが子孫後進の者の模範になったときは、その人は神として崇められよう。 そのためには、死後においても、有意義かつ永遠に、子孫後進の者のために、 快適に、気持ちよい死後人生、価値ある人生を過ごすことが出来よう。
 したがって、天国極楽浄土で、大勢の沈黙人たちと共に安穏な存在としてではなく、 あるいは多数の中での小さな存在としてではなく、頼りがいのある存在になれるであろう。

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