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宗教を読む / 聖書の宗教

◆労働観
『キリスト教とイスラム教』によると、
 英語のリッチ″(豊かな)は、金銭的な豊かさもさることながら、 むしろ自由に使える時間をふんだんにもっている人がリッチな人なのです。 「忙しい」ということはリッチではなく、 あなたは忙しく働かねば食えないほど貧しいのだと言ったことになります。
 そもそもキリスト教の労働観は、 「われわれは働きたくない。ところが、われわれは働かねばならない。 なぜ、働かねばならないのだろうか……」
といった問題意識から出発します。 そして、この疑問を説明したのが、『旧約聖書』の「創世記」です。
 
 それによると、最初の人類であるアダムとエバは、 神の楽園であるエデンの園に幸福に生きていました。 彼らは神の祝福をうけていて、ちっとも働く必要はなかったのです。 ところが、彼らは神の命令にそむいて、禁断の木の実を食べました。 そこで神は、彼らに罰を与えられたのです。
 その罰は、女に対しては「はらみの苦しみ」であり、 男に対しては「額に汗を流してパンを得る苦しみ」です。 人間は神にそむいたが故に、神から下された罰として「労働」をせねばならなくなったのです。
 
 したがって、キリスト教の労働観は、一口に言えば、
 − 労働懲罰説
です。ほんとうは、労働はしたくない。また神は、われわれが労働しないですむように配慮されていた。 しかし、われわれが罪を犯したので、働かねばならなくなったのだ。 キリスト教徒はそういうふうに考えているようです。
 もっとも、キリスト教が各地に伝播すると、キリスト教の考え方もだいぶ変わってきます。 また、時代によっても変化があります。 カトリックとプロテスタントでは、だいぶ考え方が違います。 総じてプロテスタントのほうが「勤勉」を美徳とします。 勤勉を美徳としたから、プロテスタント諸国が工業化に成功し、 工業化社会においてますます勤勉が美徳とされた。そういったことになるでしょうか。 しかし、キリスト教の根底には、「労働懲罰説」があることは否定できないと思います。
 
 イスラム教の労働観ですが、中東のイスラム教国のほとんどが、 かつて遊牧民族であったことと無関係ではありません。 遊牧民族のあいだには、
「強い者が遊牧し、弱い者が耕す」
といった格言があります。遊牧民族は農耕を軽蔑していたのです。 したがって、もともと遊牧民族の宗教であったイスラム教には、 「勤勉」を美徳とする思想は稀薄でありました。
 なぜなら、農業にあってこそ、勤勉は美徳となります。 農業では、働けば働くほど、原則として収入がふえますから。 しかし、遊牧民族の場合、いくらあくせく働いても羊やらくだの出産回数がふえはしませんし、 羊やらくだが二倍も三倍も草を食ってくれるわけでもありません。 遊牧民族には、「勤勉」や「努力」が美徳になりようもなかったという面があります。
 このような風土に生まれたイスラム教の労働観は、むしろ、
 − 労働蔑視
に近いのではないでしょうか。わたしはそう思っています。
 
 日本人は、
「今日なし得る事を明日まで延ばすな」
という格言が大好きです(もっとも、これは英語の格言の翻訳らしいのですが……)。 ところが、イスラム教国のトルコには、
「明日できる仕事を今日やるな……」
という格言があるそうです。 ここらあたりに、イスラム教の労働観がよくあらわれていると思います。
 
 神道では、勤勉が美徳てある。 時処位の中で、人々は競って勤勉な働きをする。
 またもし、人が神に成れるとしたら、 まずその人は、何事にも勤勉でなければならない。

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