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宗教を読む / 聖書の宗教

◆予定説
 予定説とは、「キリスト教教理の一。人が救われるのは、人間の意志や能力によるのではなく、 全く神の自由な恩恵に基づくという聖書の教理。 パウロからアウグスティヌスを経てカルバンの救済と滅亡の二重予定説に至る。」(コトバンク)
 
 予定説とは、「ジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。 カルヴァンによれば、神の救済に与る者と、滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。 神学的にはより広い聖定論に含まれ、その中の個人の救済に関わる事柄を指す。
 全的堕落と共にカルヴァン主義の根幹を成す。
 予定説は全キリスト教諸教派が認めている訳ではなく、 全教派からみればこれを認める教派の方が少数派である。 正教会には全く受け入れられておらず、カトリック教会ではトリエント公会議で異端として排斥された。 メソジストは予定説を批判するアルミニウス主義をとっている。
 予定説に従えば、その人が神の救済に与れるかどうかは、予め決定されており、 この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。 例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。 神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。 救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済に与れた者は罪を犯さない、 もしくは罪を犯しても必ず赦しに与るとされる。」(Wikipedia)
 
『キリスト教とイスラム教』によると、
 キリスト教には、「なにごとも神さまの思し召し」という考え方があります。 イスラム教にも「予定」という考え方があるといいます。両宗教とも、 人間の意志とか力を認めないのですか。
 この間題はむずかしい問題ですね。まともに取り組めば、一冊の本を書いても論じきれません。 ご承知のように、キリスト教の神は全能の神です。この宇宙を創造した神であり、 宇宙を超越して存在しています。したがって、 この宇宙におけるあらゆる出来事は、神によってあらかじめ定められ、 神の意志に支配されている − といった考え方が成立します。そのような考え方を 「予定説」といいます。
 
 予定説によると、われわれ人間のうち神に救われる者(救いに予定されている者) と救われない者(滅びに予定されている者)があらかじめ決まっていることになり、 人間の自由意志や努力が認められないことになります。 滅びに予定されている者は、いくら努力しても絶対に救われないのだし、 救いに予定されている者は、いかにしても救われるのです。
 こう言えば、おかしな考えのように聞こえますが、これはこれで筋が通っています。 少し考えてみてください。救いに予定されている者は、いかにしても救われるわけですが、 じやあその人はどんなに悪いことをしても救われるのか!……と、 わたしたちは反問したくなるでしょう。 しかし、その反問はおかしいのです。なぜなら、救いに予定されている人は、 悪いことができないからです。悪いことができるというのは、 その人に自由意志を認めているので、予定説ではありません。 救いに予定されている人は、絶対に悪いことができない。 故に、その人は救われる、というのが予定説です。 逆に、滅びに予定されている人は、善いことができないのです。 だから彼は、滅びにいたるよりほかありません。
 
 これを反対に考えてみてください。わたしたちが自由意志をもっていて、 善いことをするのも、悪いことをするのも、わたしたちの自由だとします。 どちらでもできるのです。そうすると、どうなりますか……?
 神は善人を救い、悪人を罰するとします。そうすると神は、神の自由がなくなってしまい、 神は自動販売機になってしまうでしょう。なぜなら、神は善人を必ず救わねばなりません。 しかも、善人であるか否かは、人間が勝手に決められるのです。 ちょうど自動販売機にコインを入れるか入れないかは、人間の勝手ですが、 コインを入れられると、いやでも自動販売機は商品を出さざるを得ません。 それと同じで、神はいやでも善人を救わねばならなくなります。 要するに、人間に自由意志を認めると、神は自動販売機になるのですね。
 
 いや、もう一つの考え方があります。善をするか悪をするかは人間の自由だとして、 しかも善人を救うか悪人を罰するかは神の自由だとします。すると、どうなりますか? ときには善人が罰をうけ、悪人が救われることになります。つまり、デタラメになります。 この世がデタラメだとすれば、神の存在理由(レーゾン・デートル)はなくなります。 神があろうとなかろうと、同じになってしまうのです。
 このように考えると、神が万能であれば、 結局は予定説を認めざるを得ないことがおわかりになると思います。 そして、わたしはいま、キリスト教の考え方について説明したのですが、 イスラム教の神=アッラーも、やはり唯一・絶対の神であり、万能の神ですから、 イスラム教についても同じことが言えるわけです。 つまり、イスラム教においても、本質的には予定説になり、 人間の自由意志は認められないのです。
 けれども、 − 
 だからといって、わたしたちは人生に対して投げやりになってはいけないのです。 キリスト教もイスラム教も、わたしたちを絶望させるために予定説を言っているのではありません。 まったく逆なのです。
 すなわち、わたしたちはみずからが救いに予定されていることを確信したとき、 神が命じられた善き業(わざ)をできるのです。 救われるために善き行為をするのではなく、 救いが予定されているから善き行為ができるのです。 予定説をそのように受け取るのが、わたしは予定説の正しい理解だと思っています。
 
 イスラム教徒の慣用句に、
「イン・シャー・アッラー」
があります。よく知られたことばですが、文字通りには「もしも神が欲し給うならば」の意味です。 出典はコーラン(18章23〜24節)です。
「なにごとにも、『私は明日それをする』などと言ってはならない。
 ただし、『神のみ旨ならば』と言い足せばよい」
 わたしが出版社に頼まれて、何月何日までに原稿を書きます……と約束します。 しかし、イスラム教徒であれば、そんな約束はしてはいけないのです。 なぜなら、いくらわたしが原稿を書くつもりでいても、未来に何が起こるかはわからないからです。 それに、もしも原稿が書けたとしても、それはわたしの力ではありません。 アッラーがわたしに書かせてくださったのです。 アッラーの配慮がなければ、わたしは病気になって原稿が書けなかったかもしれない。 すべてはアッラーの御意(みこころ)によるのです。そこでわたしは、
「イン・シャー・アッラー(アッラーの御意によって)、わたしは何月何日までに原稿を書きます」
と言わねばなりません。それがコーランの教えです。 イスラム教徒は、いつでも「イン・シャー・アッラー」を言います。 コーランの教えを忠実に − 忠実すぎるほど − 守っているのですね。
 
 しかし、日本人には、これはどうも約束不履行のための慣用句のように思えてならないのです。 わたしもイスラム教徒にこれを言われて、「もうそのことばだけはやめてよ……」と 言いたくなったことがあります。これを言われると、もうまったく相手の誠意がわからなくなります。 日本人とイスラム教徒は、まるで対極の考え方をしているのですね。
 そういえば、日本人の大好きな格言は、
「人事を尽くして天命を待つ」
だと思います。これはほんらいは中国の名言ですが、それを忘れさせるくらい、日本的になっています。 ところで、イスラム教徒に言わせると、これほどおかしなことばはないのでしょう。 わたしたちが人事を尽くせるか否かは、アッラーの御意(それがイコール天命)次第なのですから。 なにも人事を尽くす必要はありません。イスラム教徒であれば、きっとそう言うでしょう。 それが、「イン・シャー・アッラー」の意味なのです。
 
 イエス・キリストも、新約聖書において同じことを言っています。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である」(「マタイによる福音書」6)
 そして、キリスト教徒は、
「御意(みこころ)のままにならせたまえ − 」
と祈るのです。すべては神の御意です。神に対する絶対帰依が、 キリスト教徒の基本的態度だと思います。
 
 前述中、「救いが予定されているから善き行為ができる」と云うとは、 (前提として)人は生来罪人であるため、神の教えに従うことで、 神の「救いが予定されているから善き行為ができる」と云うことであると理解される。
 しかして、神道においては、人は生来中正(善人でも悪人でもない)であるため、 その成長活動は自然の摂理にしたがって(=善)を指向する、ことを前提としている。 したがって、人の行いが、善であれば神は良しとし、悪であれば神は否として評価することとなる。
 ※「自然の摂理」については、〔人は神になれるかの項参照〕
 
* おかぐら
 おかぐら(増築)とは、平屋建て(住宅)に二階部分を載せると云う増築工事のことである。 平屋部分がしっかりしていなければ、二階増築を諦めなければならない。 平屋部分をそれなりに補強すれば別だが……。
 
 さて、先人賢人たちの叡智により構築されてきている、いろいろな説(定説〜仮説)については、 個別的には非の打ちどころのない、優れたものであり、敬意を表する次第である。
 その中のある特定のA説を更に補強したいとするとき、 たとえA説がとても優れていて比類ないほど人々の信頼を得ていたとしても、 B・C〜などの他の説と間に違和感や、疑念を感じたりするようなことが生じてきたときは、 A説はそれなりに自説の整合性などを再点検しなければならない。 その上で、補強説(おかぐら工事)が付加されることとなろう。  
 例えば、世界の大多数の人々の熱い信仰の対象となっている聖書の思想については、 時の流れと共に、それを補強すべく幾多の諸説が飛び交い、人々の注目を集めてきている。 その中の一つに予定説がある。 予定説は、聖書の思想において神の存在は絶対であり、人は生来罪人である、 と云う前提の上に構築されている説である。 もし、人が生来罪人でなかったら(あるいは神が人々の自由を容認したら)、 予定説は成り立たないものと考えられる。
 換言すれば、予定説を提示し主張したことで、 聖書の思想の脆弱性が暴露されてしまったのではないだろうか。 何故なら、人は生来罪人ではあり得ないからである。
 
 想うに、この「予定説」は、一神教説を無理やりに正当化しようとする意図のある、 とても組しがたい説と考えざるを得ない。

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