GLN 宗教を読む

法華経

◆8.五百弟子受記品
この章ではお釈迦さまのお弟子フルナをはじめとして、五百人ものお弟子が授記されます。そしてこれら五百人の人々が了解したことをたとえ話としてお釈迦さまに申し上げたのです。そのたとえ話を「えり宝珠のたとえ」といいます。ある人が親友の家をたずねてご馳走になり酒に酔って寝てしまいました。ところが家のあるじである友人は公用で外出しなければなりませんでした。しかし客人は寝ているので起こすのも気の毒と思ってそのままそっと外へ出たのでした。その時旅先で使うようにと、客人の上着のえりに大変高価な宝珠を縫い付けました。やがて客人は目をさまし、誰もいないとわかるとあてもなく歩きはじめました。国から国へとさまよい、持っていたお金も全部使いはたしてしまいました。親友が縫い付けた宝珠など知るよしもありません。やがてみすぼらしい生活をおくるようになりました。ある日偶然にも宝珠をくれた親友に出会いました。親友は友人の姿をみると、嘆きながら、「あなたはなぜそのように苦しんでいるのですか。私はあなたに安楽な生活をしてもらおうと、大切にしていた宝珠をさし上げたのに、その宝珠はそのままあるではないか。なぜそれを使わないのだ。早くそれを使い安楽な生活をおくるように。」と言いました。これがえり宝珠のたとえというお話しです。酒を飲んで寝てしまった客人とは私たち衆生のことをさし、宝珠を縫い付けた友人とはお釈迦さまのことで、宝珠とは仏種のことです。この話は人間をはじめ生きるものすべてに仏種があるということです。ただ己の中に尊い宝物があるとはなかなか信じられません。酒によって自分に素晴しい宝物があるとは知らずに通した人と同じく私達は煩悩という酒によってわからずにいるのです。自分のことだけ目の前のことだけに気をとられ、もっと大切なものを見失いがちです。お釈迦さまはそんな私達の目をさまそうといろいろな形で教えを説かれたのです。ところで、私たちの中に仏種があるということは、その種を自覚すればよいということではありません。その仏種を活動させなければなりません。つまり仏種があると自覚したときには、その働きが同時に行われているのです。ただひたすら瞑想に入り、おのれの中に仏さまがおられるということを追及するだけでは何もならないということです。日蓮聖人が人々を救済するために法華経を弘め、お題目を弘められたのは、仏の種を持つ者としての実践修行の大切さを自覚されていたからです。
 
 釈迦の時代、客人をもてなすために飲酒を薦めることが一般的であったことが窺われます。
 〔律法の項参照〕

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