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聖書の起源

◆読後感想
@新石器時代(紀元前8000年前後)とは、石器時代のうち新しい時代。本来の定義では、完新世に属することと精巧な打製石器および磨製石器の存在を重視したが、現在では、西アジア・ヨーロッパ・中国などで農耕や牧畜など食料生産を開始した時代をいう。
A新石器時代には、農耕や牧畜の開始によって社会構造が変化し、文明の発達が始まったことから、一連の大変革は新石器革命とも呼ばれる。
B農耕の開始と同時期に牧畜も開始された。これらの始まりの時期より主に磨製石器が作られたことから、この時代は新石器時代と呼ばれている。また、一連の変革により食料の生産が可能となり、生活システム・社会構造を変化させ文明の発達が始まったことから、農耕革命、あるいは新石器革命とも呼ばれる。
C人類の祖先(ヒト亜科)は他の霊長類と分岐して以降の数百万年もの長い間、採集、狩猟、漁労などによって生計を立ててきたとされる(狩猟採集社会)が、それらとともに新たに農耕や牧畜が始められた理由として食料難が一つの説としてあげられている。農耕が始まった時期は氷河期(最終氷期)の終結に伴う気候の変動が続いた時期(急激な温暖化と、それによって溶解した氷河からの冷水が海水温を下げたことによる一時的な寒冷化への揺り戻しが発生した)と重なっており、これによって従来通りの狩猟採集で食料の確保をすることが困難になったことも切っ掛けとされる。農耕は大量の水が要り、ついでその管理も必要となってくるため、河川周辺など、定期的に水の供給が得られる場所が農地として選定されることが多い。(Wikipediaほか)
D新石器時代に、森林地帯では採集から農耕へ移行し、草原地帯では狩猟生活から牧畜に移行した。この農耕と牧畜の生活様式の軌跡を辿ると、「ヒト」は農業革命という技術革新によって「人」になり、農耕〜牧畜という循環型再生産をしてきた反面、森林の破壊という非循環型開発を強行した結果、やがて森林は荒廃され続けてきた。即ち「地球の砂漠化」への道である。

 農業は、温暖な気候と、適度な水を必要とする。しかし、砂漠化が進行すると、水不足は農業を疲弊させる。砂漠化によって、旱魃は数年〜数十年単位で襲ってくる。為政者や農民は、太陽神などの神々に対して豊作を祈願してきたが、砂漠化による気候の変動には、神々であっても、威力を発揮することは不可能であった。たまたまやって来る雨季は、あたかも「気まぐれな神の仕業」のように人々は考えるようになった。人々の心は、既存の神々から離れていった。
 カインのように、まともな作物を収穫できなくなった農民は、代々引き継いできた農地に見切りをつけ、あてもなく、肥沃な土地を求めて彷徨うのであった。
 彼等は、太陽神などの神々よりも、もっと強力な神を志向した。遊牧の民から元の農耕の民へ戻るためであった。つまり、絶対的に強力な「唯一の神」を創造することであった。

 しかし、唯一絶対神でさえも、容易に彼等の願いを聴いてはくれなかった。彼等が求めるところの農業に適した新たな土地は、見つからない。
 そこでまた考えた。
 志を同じにする寄留者(遊牧民)たちは、唯一絶対神に対して誓う。「私供寄留者は全て、あなたを信ずる」と。
 団結した彼等は、念願を叶えるため、唯一絶対神の名において、既存の肥沃な土地を侵略していった。
 これが、旧約聖書が作成された意図である、と考えられる。

 新約聖書の作成意図も同じ手法である。
 イエスの贖罪によって、人々の過去は清算され、イエスの名のもとに「信仰告白」する。しかし、過去の罪が清算されても、人々は喜んではいられない。神の国たる幸福な世界は、すぐそこまできているとされるが、人々はまだその恩恵に与るような機会を得ていない。実は、その機会は永遠に訪れないのかもしれない。
 したがって、この思想宗教においては、(神の名において)自国の利益のために、他国を侵略(戦争)することは、当然視され得るのかもしれない。

 このように考えると、次のことが髣髴と想い出される。
 いわゆる「原罪」とは、太陽神などの神々への信仰を止めて、唯一絶対神を信じることとなった心の葛藤のこと、と思わざるを得ない。
 何故なら、聖書に関与しない人々は、「原罪」の概念を抱くことがないからである。
 このことは、仏教においても同じである。[守]

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