◆宗教を支配するもの 「個人と集団」の項で、聖書の宗教は共同体のための宗教、 仏教は個人のための宗教であると述べました。 それでは、共同体・個人は当該宗教を支配していると云いましょうか、 管理しているのでしょうか。 表面的に概観すると、如何にもそのようにみえますが……。 一方、前項では、前提として、聖書では人(罪人)、 仏典では現実(自分を取り巻く環境) がそれぞれの宗教の要点であると述べました。 ところで、森羅万象を観察し認識するものは、人間です。 人間〜人間社会が存在することで、森羅万象の存在意義〜価値観が評価されるのです。 それ故、評価を左右するものは、人による多数決原理です。 つまり、現実にこの世の流れを左右する、主軸の理論は多数決原理なのです。 人々の多数意見で、現実の価値観が醸成され決定されていくのです。 そうしますと、勿論、聖書の宗教の共同体の方針(ポリシー)の決定権は、 個々人に委ねられることになります。 つまり、共同体たる宗教を支配するのは、個々人と云うことになりましょう。 仏教についても同様、人の行の主導権(イニシアチブ)を握っているのは、 国家〜社会(〜修行集団、〜寺院組織)と云うことになりましょう。 ですから、聖書の宗教においては、 多数決原理を採用する教団(キリスト教団など)では、逸早く民主化が行われ、 別掲「聖書の起源」のような議論が噴出してくるのです。 仏教では、個々人の民主的人格は問われませんので、 仮に仏典と現実との間の不整合な部分に気づいたとしても、 それ(修行集団や寺院組織のあり方など)を修正しようとする気運は、 なかなか生まれてこないことになります。 修行者(僧)は個々に、任意に仏典を解釈して応用するようになること(講話など) もあるかもしれません。 また一例としては、現行寺院での読経です。 通常会話(日本語)では解釈し難い言葉で仏典が読まれています。 神道では、時処位中、 個々の構成要因は、それぞれの受け持ち部署において、 均衡(バランス)よく配されることに気を配っておりますので、 随時又は任意に時処位のあるべき姿を更新し続けることになります。 神職の役割は、神前において人(氏子崇敬者)の意を代弁するのみです。 |
[次へ進む] [バック] [前画面へ戻る] |