GLN 武士道

17 武士道の将来

 ヨーロッパの騎士道と日本の武士道との間におけるごとく適切なる歴史的比較をなしうるものは 稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを 繰り返すであろう サン・パレーの挙ぐる騎士道衰頽の特殊的地方的原因は、もちろん日本の状態には 適用せられない。しかしながら中世およぴその後において騎士と騎士道とを覆えすに与りて力ありたる、 より大かつより一般的なる諸原因は、武士道の衰微に対しても確かに働きつつある。
 ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一の顕著なる差異は、ヨーロッパにありては騎士道は 封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたるに反し、 日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。したがって母制度たる封建制 の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。 現在の整備せる軍隊組織はこれをその保護の下に置きうるであろう、しかし吾人の知るごとく現代 の戦争は武士道の絶えざる成長に対して大なる余地を供しない。武士道の幼時においてこれを 哺育したりし神道は、それ自体すでに老いた。中国古代の聖賢はベンサム・ミル型(タイプ) の知的成り上り者によってとって代られた。時代の好戦的排他傾向に阿諛(あゆ)し、その故に今日の 要求に善く適合すると考えられたる快楽的傾向の倫理説が発明せられ提供せられた、しかし今日 なおその黄色き声が黄色新聞の紙面に反響するを聞くに過ぎない。
 
 もろもろの権能および権威は陣を張って武士道に対抗する。ヴェブレンの説くがごとく、すでに 「本来の産業的諸階級の間において儀式的礼法の衰微せること、換言すれば生活の通俗化は、 鋭敏なる感受性をもつすべての人々の眼に澆季(ぎょうき)文明の主なる害悪の一つと映ずるに至った」。 勝ち誇れる平民主義(デモクラシー)の抵抗し難き潮流だけでも、武士道の遺残を呑むに足る 力があった。けだし平民主義はいかなる形式もしくは形態のトラストをも許容しない。しかるに武士道は 知識および教養の予備資本を独占する人々によりて組織せられ、道徳的諸性質の等級および価値を定むる トラストであった。現代の社会化的諸勢力は区々たる階級精神に敵抗する。しかるに騎士道は、 フリーマンの鋭く批評せるごとく、一の階級精神である。現代社会は苟しくも何らかの統一を標榜する 限り、「特権階級の利益のために工夫せられたる純粋に個人的なる義務」を容認するをえない。 これに加うるに普通教育、産業技術、富ならびに都会生活の発達をもってせよ。 − しからば吾人は 武士の刀の最も鋭利なる切れ味も、武士道の最強なる弓から放たれる最鋭の矢も、施すに所なきを 容易に知りうる。名誉の巌の上に建てられ、名誉によりて防備せられたる国家 − これを名誉国家 (エーレンシュタート)、もしくはカーライルに倣いて英雄国家(ヒーローアーサー)と称すべきか?  − は、庇理屈の武器をもって武装せる三百代言の法律家や饒舌の政治家の掌中に急速に落ちつつある。 一人の大思想化テレーサおよびアンティゴーネについて述ぶるに際し「彼らの熱烈なる行為を生みたる 環境は永久に去った」と言える語は、また武士に移して適切であろう。
 
 悲しいかな武士(さむらい)の徳! 悲しいかな武士の誇り! 鉦太鼓の響きをもって世に 迎え入れられし道徳は、「将軍たち王たちの去る」とともに消え行かんとする運命にある。
 もし歴史が吾人に何ものかを教えうるとせば、武徳の上に建てられたる国家は − スパルタの ごとき都市国家にせよ、或いはローマのごとき帝国にせよ、 − 地上において「恒に保つべき都」 たるをえない。人の中にある戦いの本能は普遍的かつ自然的であり、また高尚なる感情や男らしき 徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全体を尽すものではない。戦いの本能の下に、 より神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛である。神道、孟子、および王陽明の明白にこれを 教えたるは、吾人のすでに見たるところである。しかるに武士道その他すべて武的型態の倫理は、 疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭するあまり、往々右の事実に対し正当なる重さを 置くを忘れた。今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き 使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、 孔子の仁の思想 − 仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか − キリスト教の愛の観念へと 拡大せられるであろう。人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは 公民以上である − 人である。戦雲暗く我が水平線上を蔽うといえども、吾人は平和の天使の 翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は「柔和なる者は地を嗣がん」との預言を確証する。 平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国民は、 まったくつまらない取引をなすものだ!
 
 社会の状態が変化して武士道に反対なるのみでなく敵対的とさえなりたる今日は、その名誉ある 葬送の準備をなすべき時である。騎士道の死したる時を指摘するの困難は、その開始の正確なる 時を決定するの困難なるがごとくである。ミラー博士は曰く、騎士道はフランスのアンリ二世 が武芸仕合(トーナメソト)で殺されし一五五九年をもって公然廃止せられたと。我が国においては 一八七〇年〔明治三年〕廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘を報ずる信号であった。その五年後公布せられし 廃刀令は、「代価なくして得る人生の恩寵、低廉なる国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保姆 (ほぼ)」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代を鳴り迎えた。
 
 或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銑とクルップ砲によりてであると。 また言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかしながらこれらは真理の半面たるにも 当らない。たといエールバーもしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の 手によらずして、ピアノそのものがリストのラプソディもしくはベートーヴェンのソナタを弾奏し 出すことがあるか。さらにもし銃砲が戦に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはその ミトライユーズ式機関銃をもってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人は そのモーゼル銃をもって、旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリッピン人を 破ることをえなかったのであるか。活力を与えるものは精神でありそれなくしては最良の器具 もほとんど益するところがない、という陳腐の言を繰り返す必要はない。最も進歩せる銃砲も 自ら発射せず、最も近代的なる教育制度も臆病者を勇士と成すをえない。否! 鴨緑江(おうりょくこう) において、朝鮮および満洲において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある 我らが父祖の威霊である。これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに 見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現われる。 名誉、勇気、その他すべての武徳の偉大なる遺産は、クラム教授の誠に適切に表現したるがごとく、 「吾人の信託財産たるに過ぎず、死者ならびに将来の子孫より奪うべからざる秩禄」である。 しかして現在の命ずるところはこの遺産を護りて古来の精神の一点一画をも害わざることであり、 未来の命ずるところはその範囲を拡大して人生のすべての行動および関係に応用するにある。
 
 封建日本の道徳体系はその城廓と同様崩壊して盛土に帰し、しかして新道徳が新日本の進路を 導かんがため不死鳥のごとくに起る、と預言する者があった。しかしてこの預言は過去半世紀の 出来事によって確かめられた。かかる預言の成就は望ましきことであり、かつ起りうべきことであるが、 しかし不死鳥はただおのれ自身の灰の中から起きいでるのであって、候鳥でもなく、また他の鳥からの 借り物の翼で飛ぶのでもなきことを忘れてはならない。「神の国は汝らの中にあり」。 それは山いかに高くともそこから転り落ちてくるのではなく、海いかに広くともそれを渡って 航走し来るのではない。『コーラン』に言う、「神はおのおのの国民にその国語をもって語る預言者を 賜いたり」と。日本人の心によって証せられかつ領解せられたるものとしての神の国の種子は、 その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。 しかして吾人はあらゆる方向に向って美と光明、カと慰籍の他の源泉を求めているが、 いまだこれに代るべきものを見いださないのである。功利主義者および唯物主義者の損得哲学は、 魂の半分しかない屁理屈屋の好むところとなった。功利主義および唯物主義に拮抗(きっこう) するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに此すれば武士道は「煙れる亜麻」 のごとくであることを告白せざるをえない。しかし救主(メシヤ)はこれを消すことなく、 これを煽(あお)いで焔となすと宣言した。救主の先駆者たるへブルの預言者たち、就中(なかんずく) イザヤ、エレミヤ、アモス、およぴハバククらと同じく、武士道は特に治者、公人および国民の 道徳的行為に重きを置いた。これに反しキリストの道徳はほとんど専ら個人、ならびに個人的にキリストを 信ずる者に関するものであるから、個人主義が道徳的要素たる資格において勢力を増すにしたがい、 実際的通用の範囲を拡大するであろう。ニイチェのいわゆる専制的自己主張的なる主人道徳は、 或る点においては武士道に近い。しかしながらもし私にして甚しく誤っていないならば、これは同じく ニイチェが病的なる歪曲によりて、ナザレ人の謙遜なる、自己否定的なる奴隷道徳と呼びたるものに 対する一の過渡的現象もしくは一時的反動である。
 
 キリスト教と唯物主義(功利主義を含む) − 将来或いはへブル主義とギリシャ主義というさら に古き形式に還元せられるだろうか? − は世界を二分するであろう。小なる道徳体系 はいずれかの側に与して自己の存続を計るであろう。武士道はいずれの側に与するであろうか。 それは何らまとまりたる教義もしくは公式の固守すべきものなきが故に、全体としては身を消失に委ね、 桜花のごとく一陣の朝風に散るを厭わない。しかしながら完全なる絶滅がその運命たることは 決してありえない。ストイック主義は滅んだと、誰が言いうるか。それは体系としては滅んだ。 しかし徳としては生きている。その精力と活力とは今日なお人生多岐の諸方面において −  西洋諸国の哲学において、全文明世界の法律において、感知せられる。否、いやしくも人が自己以上に 自己を高めんと奮闘する時、自己の努力によりて霊が肉を支配する時、吾人は常にゼノンの不滅 の教訓の働けるを見るのである。
 
 武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より 滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明 その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に 散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣 が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方 の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。 − この時かのクエイカー詩人の美しき言葉に 歌えるごとく、
  いずこよりか知らねど近き香気に、
  感謝の心を旅人は抱き、
  歩みを停め、帽を脱りて
  空よりの祝福を受ける。(完)

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