GLN 武士道

12 切腹

* 自殺および復仇の制度
 ……
 すでに読者は、切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。 それは法律上ならびに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、 過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。 それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行なわれた。 それは洗煉せられたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては 何人もこれを実行するをえなかった。これらの理由により、それは特に武士に適わしくあった。
 
 好古的なる好奇心からだけでも、私はすでに廃絶せるこの儀式の描写をここになしたいと思う。 しかるにその一つの描写が遥かに能力ある著者によりてすでになされており、その書物は今日は 多く読まれていないから、私はやや長き引用をそれからなそうと思う。ミットフォードはその著 『旧日本の物語』において、切腹についての説を或る日本の稀覯(きこう)文書から訳載した後、 彼自身の目撃したる実例を描写している。
 「我々(七人の外国代表者)は日本検使に案内せられて、儀式の執行さるべき寺院の本堂に進み入った。 それは森厳なる光景であった。本堂は屋根高く、黒くなった木の柱で支えられていた。 天井からは仏教寺院に特有なる巨大なる金色の燈籠その他の装飾が燦然と垂れていた。高い仏壇の前には 床の上三、四寸の高さに座を設け、美しき新畳を敷き、赤の毛氈が拡げてあった。 ほどよき間隔に置かれた高き燭台は薄暗き神秘的なる光を出し、ようやくすべての仕置(しおき)を 見るに足りた。七人の日本検使は高座の左方に、七人の外国検使は右方に着席した。それ以外には 何人もいなかった。
 不安の緊張裡に待つこと数分間、滝幸三郎は麻裃の礼服を着けしずしずと本堂に歩みいでた。 年齢三十二歳、気品高き威丈夫であった。一人の介錯(かいしゃく)と、金の刺繍せる陣羽織を着用した 三人の役人とがこれに伴った。介錯という語は、英語のエクシキューショナーexecutioner(処刑人) がこれに当る語でないことを、知っておく必要がある。この役目は紳士の役であり、多くの場合各人 の一族もしくは友人によって果され、両者の間は各人と処刑人というよりはむしろ主役と介添えの 関係である。この場合、介錯は滝善三郎の門弟であって、剣道の達人たる故をもって、彼の数ある 友人中より選ばれたものであった。
 
 滝幸三郎は介錯を左に従え、徐(しず)かに日本検使の方に進み、両人共に辞儀をなし、 次に外国人に近づいて同様に、おそらく一層の鄭重さをもって敬礼した。いずれの場合にも恭しく 答礼がなされた。静々と威儀あたりを払いつつ幸三郎は高座に上り、仏壇の前に平伏すること二度、 仏壇を背にして毛氈の上に端坐し、介錯は彼の左側に蹲(うずくま)った。三人の付添役中の一人は やがて白紙に包みたる脇差(わきざし)をば三宝(さんぼう) − 神仏に供え物をする時に用いられる 一種の台 − に載せて進み出た。脇差とは日本人の短刀もしくはヒ首(あいくち)であって 長さ九寸五分、その切尖(きっさき)と刃とは剃刀(かみそり)のごとくに鋭利なるものである。 付添は一礼したる後各人に渡せば、彼は恭しくこれを受け、両手をもって頭の高さにまで押し戴きたる上、 自分の前に置いた。
 再び鄭重なる辞儀をなしたる後、滝幸三郎、その声には痛ましき告白をなす人から期待せらるべき 程度の感情と躊躇とが現われたが、顔色態度は毫も変ずることなく、語りいずるよう、
 『拙者唯だ一人、無分別にも過って神戸なる外国人に対して発砲の命令を下し、 その逃れんとするを見て、再び撃ちかけしめ候。拙者今その罪を負いて切腹致す。各方には 検視の御役目御苦労に存じ候』。
 またもや一礼終って幸三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺まで露わし、仰向に倒れることなきよう、 型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。そは高貴なる日本士人は前に伏して 死ぬべきものとせられたからである。彼は思入あって前なる短刀を確かと取り上げ、嬉しげにさも 愛着するばかりにこれを眺め、暫時最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く刺して 徐かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。この凄じくも痛ましき動作の間、 彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて首を差し伸べた。 苦痛の表情が始めて彼の顔を過ぎったが、少しも音声に現われない。この時まで側に踞りて彼の一挙一動 を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上り、一瞬大刀を空に揮(ふ)り上げた。 秋水一閃(しゅうすいいっせん)、物凄き音、堂(革偏+堂、どう)と仆るる響き、一撃の下に 首体たちまちその所を異にした。
 場内寂として死せるがごとく、ただ僅かに我らの前なる死首より迸りいずる血の凄じき音のみ聞えた。 この首の主こそ今の今まで勇邁剛毅の丈夫たりしに! 懼(おそろ)しい事であった。
 介錯は平伏して礼をなし、予て用意せる白紙を取り出して刀を拭い、高座より下りた。血染の短刀は 仕置の証拠として厳かに運び去られた。
 かくて御門(みかど)の二人の役人はその座を離れて外国検使の前に来り、滝幸三郎の処刑滞りなく 相済みたり、検視せられよと言った。儀式はこれにて終り、我らは寺院を去った」。
 
 我が文学もしくは実見者の物語より切腹の情景を写さんとせば枚挙に遑はないが、今一つの実例を 挙げれば足りるであろう。
 左近、内記という二人の兄弟、兄は二十四歳、弟は十七歳であったが、父の仇を報ずるために 家康を殺そうと努力し、陣屋に忍び入らんとして捕えられた。老英雄は己れの生命を狙いし若者 の勇気を愛でて、名誉の死を遂げえさせよと命じた。一族の男子皆刑せらるることに定められ、 当年僅かに八歳の小児に過ぎざりし末弟八麿やまた同じ運命に定められた。かくて彼ら三人は 仕置場たる一寺に引き立てられた。その場に立合いたる一人の医師の書き残したる日誌により、 その光景を記述すれば次のごとくである。
 「彼らが皆列んで最期の座に着いた時、左近は末弟に向いて、『八麿よりまず腹切れよ、 切損じなきよう見届けくれんぞ』と言った。稚きは答えて、ついぞ切腹を見たることなければ、 兄のなさん様を見て己れもこれに倣わんと言えば、兄は涙ながらに微笑み、『いみじくも申したり、 健気の稚児や、汝父の子たるに恥じず』とて、二人の間に八麿を坐らせ、左近は左の腹に刀を突き 立てて『弟これを見よや、会得せしか、あまりに深く掻くな、仰向に倒れるぞ、俯伏して膝をくずすな』。 内記も同じく腹掻き切りながら弟に言った、『目を刮と開けや、さらずば死顔の女にまごうべきぞ。 切尖淀むとも、またカ撓むとも、さらに勇気を鼓して引き廻せや』。八麿は兄のなす様を見、 両人の共に息絶ゆるや、静かに肌を脱ぎて、左右より教えられしごとく物の見事に腹切り了った」。
 
 切腹をもって名誉となしたることは、おのずからその濫用に対し少なからざる誘惑を与えた。 全然道理に適わざる事柄のため、もしくは全然死に催せざる理由のために躁急なる青年は飛んで 火に入る夏の虫のごとく死についた。混乱かつ曖昧なる動機が武士を切腹に駆りしことは、 尼僧を駆りて修道院の門をくぐらしめしよりも多くあった。生命は廉(やす)くあった  − 世間の名誉の標準をもって計るに廉いものであった。最も悲しむぺきことは、名誉に常に 打歩(うちぶ)が付いていた、いわば常に正金ではなく、劣等の金属を混じていたのである。 ダンテの「地獄」の一圏中自殺者を置きし第七圏に勝りて日本人の人口稠密なるを誇るものは ないであろう。
 しかしながら真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。 一人の典型的なる武士は一戦また一戦に敗れ、野より山、森より洞へと追われ、単身饑えて薄暗き木 のうつろの中にひそみ、刀欠け、弓折れ、矢尽きし時にも − 最も高邁(こうまい)なるローマ人 〔ブルトゥス〕もかかる場合ピリピにて己が刃に伏したではないか − 死をもって卑怯と考え、 キリスト教殉教者に近き忍耐をもって、
  憂き事のなほこの上に積れかし
  限りある身のカためさん
と吟じて己れを励ました。かくして武士道の教うるところはこれであった − 忍耐と正しき良心 とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ。そは孟子の説くがごとく、「天の将に 大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚(たいふ) を饑えしめ、その身を空乏し、行(おこない)そのなすところを払乱(ふつらん)せしむ。 心を動かし性を忍びその能わざるところを曾益(ぞうえき)する所以なり」である。真の名誉は 天の命ずるところを果すにあり、これがために死を招くも決して不名誉ではない。これに反し 天の与えんとするものを回避するための死は全く卑怯である! サー・トマス・ブラウンの奇書 『医道宗教』の中に、我が武士道が繰り返し教えたるところとまったく軌を一にせる語がある。 それを引用すれば、「死を軽んずるは勇気の行為である、しかしながら生が死よりもなお怖しき 場合には、あえて生くることこそ真の勇気である」と。 十七世紀の名僧が諷して言える言に − 「平生何程口巧者に言うとも死にたることのなき侍は、 まさかの時に逃げ隠れするものなり」と。また「一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も 為朝の矢も透らず」。
 ……
 切腹および敵討の両制度は、刑法法典の発布と共にいずれ存在理由を失った。美しき乙女が 姿を変えて親の仇敵を尋ねるロマンティックな冒険を聞くことはもはやない。家族の敵を討つ 悲劇を見ることはもはやない。宮本武蔵の武者修行は今や昔語となった。規律正しき警察が被害者 のために犯人を捜索し、法律が正義の要求を満たす。全国家社会が非違を匡正(きょうせい)する。 正義感が満足せられたが故に、敵討の必要なきに至ったのである。
 
 切腹については、これまた制度上にはもはや存在しないけれども、なお時々その行なわれるを聞く。 かつ過去が記憶せられる限り、おそらく今後もこれを耳にするであろう。自殺信者が驚くべき速度で 世界中に増加しつつあるを見れば、痛みのない、また時間のかからぬ多くの自殺方法 が流行してくるであろう。しかしながらモルセリ教授は多くの自殺方法中、貴族的地位をば切腹 に与えなければならぬであろう。教授は主張して曰く、「自殺が最も苦痛なる方法もしくは長時 の苦悶を犠牲にして遂行せらるる場合は、百中九十九まではこれを狂信、狂気、もしくは病的興奮 による精神錯乱の行為に帰することができる」と。しかしながら正規の切腹には、狂信、狂気 もしくは興奮の片影をも存せず、その遂行が成功するには極度の冷静が必要であった。 ストラハン博士は自殺を分って、合理的もしくは擬似と、不合理的もしくは真正との二種となしたが、 切腹は前者の型の最好例である。
 これらの血腥(なまぐさ)き制度より見るも、また武士道の一般的傾向より見ても、 刀剣が社会の規律および生活上重要なる役割を占めたことを推知するは容易である。 刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。

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