錦木塚の伝記 |
黒沢覚平が幕府巡見使に語った『錦木塚の伝記』 いつの年に初まるかは知らない。昔橋落(はしおち)川の下赤森(あかもり)近くに村里があり、その村を芦田原(あしたはら)といった由。近き村に六十有余の田夫(でんぷ)があって、この老人に男子がない故、壱人の女子を養い、かの女極々(ごくごく)見目形美しく、布はた上手にて色々の鳥の毛を織交ぜ、芦田原市へ出て売出す、是を細布(ほそぬの)と申す由。時の人余りに布の見事な故に、錦と申すもの是ならんといった由。その頃又草木村(くさぎむら)の奥に広川原(ひろかわら)と申す処に男壱人住み、錦木という中人木(なかうどぎ)の葉を美しく色取り、芦田原の市へ売りに出る。 その頃鹿角の習わしに、男女の縁組のとき望みの女の門に男は錦木を立てるので、縁組しようと思う男の錦木は取入れ、嫌なれば不縁とて取入れぬ由。右の男女芦田原の市にて度々出会い、知人(しりびと)となり互いに打解け語り合い、男が娘へ申すにはわが宿(やど)の妻になってほしいと、娘答えて私に父母ありその許しなくて夫に従いなば走り女といわれ心にも恥ずかしいと言う。男尤もと思い錦木を女の門に立てたが、親一向に承引(しょういん)なく取入れないまま押して三年近く立て申した由。然るにこの娘男の志哀れに思えども、父母の許し無いまま朝暮思いに深く沈み居り、男毎夜に通いつつ出会うこと無く、双方物思いとなり男女共に恋焦れ相果ててしまった。 父母深く悲しみ、男女共々に三年立置いた錦木を同塚に埋めたので錦木塚と名づけられ、印に杉一本植え置かれた。男の毎夜通う時には、狐崎(きつねざき)より狐鳴騒ぎ松桂が谷(しょうけいがたに)より梟(ふくろう)囀る声聞こえしものの、女は男の前から隠れる心のみに思い暮らし、男帰れば狐も梟も声無くなり、松桂に鳴く梟と申す古事とはこの事かと申す程であった。狐の騒ぎし処狐崎と云う。男も三年通えしが女に出会わざる故深く嘆き、毎夜の帰り道に涙を洗いし所を涙川(なみだがわ)と云う。その通えし道筋をけふの細道と云う。 右の男女埋めし塚に、その頃より機織(はたおり)の音響き渡り面白く聞こえるので、近所の者共立寄り見れば人も見えず音も聞えず、遠く離れた向いの長根から見れば、美しき女塚の辺りに現われ、機を立て面白き拍子にて機織る由、其の所を物見坂(ものみざか)と云う。それ以後とも初秋の頃機の音面白く聞こゆる由。 この様な霊地故、天長(てんちょう)年中に淳和(じゅんな)天皇勅命として錦木を改め錦木山観音寺と崇め奉る。其頃鹿角郡中は禁中御臺領(ごだいりょう)にて左少弁某(さしょうべんなにがし)と申す公卿(くげ)下向、村里の旧跡を調べ禁裏神明帳(きんりしんみいちょう)に記帳させた由。福生山(ふくしょうざん)中台寺(ちゅうだいじ)万谷村(まんやむら)田中にあり、養老山(ようろうざん)喜徳寺(きとくじ)小豆沢村にあり、長牛山(なごしさん)仁量寺(じんりょうじ)上浦(かみら)長牛村にあり、右三大日は昔人王(じんのう)廿七代継体(けいたい)天王善喜(善記)年中に大毘盧長者(だいびるちょうじゃ)建立の由。右三大日を郡中惣社として凡そ二百四十四社、是皆羽黒山末社にて、中にも錦木山は国中無双の霊地、遠部(とおべ)迄隠れ無き歌書(うたがき)等にも其の名有り、この由その後貞観(じょうがん)年中慈学(覚)大師当地修行の節、郡中の旧跡神社を改め絶えたるを継ぎ捨れたるを興し給う時、錦木塚の亡魂男女共に現れ出て大師に見え申す由、今の謡本(うたいほん)に伝える通りにて、時代遥かに移り鹿角は四十二人の侍奥州の内或いは出羽の支配と色々変化仕(つかまつ)り、その後失いたる神社も多けれど、錦木の霊魂前代迄も七月初旬の月浄く風静かなれば、機織る音面白く聞えしを、大湯の領主不思議に思い塚の中に何か有らんと掘って見たる処、その後一向機の音仕らずとの申し伝えではあります。 |
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