△古事記 中巻 神倭伊波礼毘古天皇(神武天皇)
 
〈当芸志美美の謀反〉
 さて、天皇が崩御された後に、その異母兄の当芸志美美命が、(神武天皇の)皇后伊 須気余理比売を娶られたときに、その三柱の弟を殺そうと企んでいる間に、その母伊須 気余理比売は嘆き苦しんで、御歌でもって御子たちに(危険を)お知らせになった、そ の御歌、
「佐韋河よ 雲立ち渡り 畝傍山
木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」
 
また、
「畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば
風吹かむとそ 木の葉さやげる」
 
 そこで、御子たちは(この御歌を)聞き知られて、驚いて、即ち当芸志美美を殺そう となさったときに、神沼河耳命は兄の神八井耳命に申した。
「貴兄は兵(つはもの、武器)を持って入って、当芸志美美を殺してくれ」
と申し上げた。
 そして、武器を持って入って、殺そうとしたときに、手足がぶるぶる震えて殺すこと が出来なかった。そこで、弟神沼河耳命は、兄のお持ちになっている武器を貰い受けて、 (その家に)入って当芸志美美をお殺しになった。そこで、その御名を称えて建沼河耳 (たけぬなかはみみ)の命とも申した。
 
 ここに神八井耳の命は、弟建沼河耳命に(皇位を)譲って申し上げるには、
「自分は敵を殺せなかった。貴命はよく敵を殺すことが出来た。故に自分は兄であるが、 上(かみ、天皇)になることはない。よって貴命が天皇になって天下を治めてくれ。僕 は貴命を助けて、忌人(いはひびと、祭祀者)になってお仕え申す」
と申し上げた。
 さて、その日子八井命は茨田(まむた)の連・手島(てしま)の連の祖先である。神 八井耳命は、意冨(おほ)の臣・小子部(ちひさこべ)の連・坂合部(さかひべ)の連・ 火君・大分(おほきだ)の君・阿蘇の君・筑紫三家(みやけ)の連・雀部(さざきべ)の造・ 小長谷(をはつせ)の造・都祁(つけ)の直・伊予国造・科野(しなの)の国造・道奥(み ちのく)の石城(いはき)の国造・常道(ひたち)の仲国造・長狭(ながさ)の国造・伊勢 船木直・尾張の丹波(には)の臣・島田の臣らの祖先である。
 神沼河耳の命は、天下をお治めになった。
 
 この神倭伊波礼毘古の天皇は、御年百三十七歳である。御陵は、畝傍山の北の方の 白檮尾(かしのを))の辺りにある。
[次へ進む]  [バック]