[54 日蓮上人]
 
出典:講談社インターナショナル(株)発行内村鑑三著「対訳・代表的日本人」
 
〔暗黒の内と外〕
 
 蓮長(日蓮上人)は仏教の基礎的な知識を一通り学ぶと、いくつかの疑問が湧いてき た。最も明白な疑問は、仏教における多数の宗派の存在だった。彼は自問した。「なぜ 、一人の人間の生涯と教えから始まった仏教が、これほど多くの宗派や分派に分かれて いるのだろうか。仏教とは一つではないのか。まわりを見回すと、どの宗派も他宗派を すべて非難し、仏陀の真実の心にかなっているのは自分の宗派だけだと主張しているが 、これはどういうことなのだろうか。どこの海の水もみな同じ味であり、仏陀の教えに 二通りあるはずがない。どうして宗派に分裂したのか、そしてどの宗派が、私の歩むべ き仏陀が説いた道なのだろうか」
 
 これが、蓮長が抱いた最初にして最大の疑問であったが、これは当然の疑問である。 我々も仏教やその他の宗教について同じ疑問を抱いており、蓮長の葛藤に深く同情でき る。彼が師とした道善をはじめ、誰もこの疑問を説いてくれなかったため、いきおい念 仏に明け暮れるようになった。ある日、特に信仰してる菩薩を祭る堂へ礼拝に行った帰 りに、心の重荷に耐えかねて倒れ、大量の血を吐いた。同僚が助け起こしたものの、意 識が回復するまでにしばらくかかった。この出来事が起きた場所は、今でも正確にわか っているが、近くの竹薮が、いくらか赤みを帯びているのは、そのとき散った血の色で 染まったからだと伝えている。ところが、ある夜、この若い僧が仏陀が入滅する直前に 語ったという涅槃経を熱心に読んでいると、次の言葉が目に留まり、迷い苦しんでいた 心にいい知れぬ開放感をおぼえた。それは、「依法不依人(えほうふえにん)」、真理 の教えを信じ、人に頼るな、という言葉だった。すなわち、人がどんなに仰々しく、も っともらしいことを言っても、人の意見を信じてはならず、仏陀の遺した経文を信じる べきであり、あらゆる疑問は経文だけに頼って解決しなくてはならない。蓮長の心は安 らかになった。これまでは、すべてが踏むと沈む砂であったのが、拠り所が見つかった のである。
 ……
 だが、仏僧にとっては、権威ある経典という問題は、キリスト教のルターにように単 純ではなかった。
 ……
 この日本人の場合には、ときには大きく矛盾する多数の経典があ り、その中から最高の権威ある正典を自分で選ばなければならない。しかし、これが比 較的容易な作業であったのは、いわゆる高等批判がまったく知られておらず、理由やい われを問うことなく古人の記録をただ信じるだけの時代だったからである。蓮長にとっ ては、ある経典の中に、大乗、小乗を問わず、あらゆるすぐれた経典の年代が記載され ているのを見つけただけで十分だったのだ。記載されていた経典の年代の順序は、仏陀 の民衆に対する初説法が収められている華厳経で始まり、(1)仏陀が出家してから最初の 12年間の教えが収められている阿含経(あごんきょう)、(2)次の16年間の教えを収めた 方等経(ほうとうきょう)、(3)それに続く14年間の教えを収めた般若経、そして、(4) 仏陀の生涯の最後の8年間の教えを収めた妙法蓮華経または法華経である。この順序か ら考えると、最後の経典に仏陀の生涯にわたる教えの神髄が収められているという結論 が出るのは当然である。つまり、日蓮の言葉を借りれば、そこには「万物の原理、永遠 の真理、仏陀の本心と内証の妙理」がある。それで「妙法蓮華経」という美しい名があ るのだ。ここで、仏教経典の正確な年代順や、それぞれの価値を比較して、批評的な考 察をするつもりはない。蓮長が重視したこの経典が、仏滅後500年も後世の作であること や、この新しい経典に信憑性と最高権威を与えることを目的として、先に触れた、経典 の年代を記載した無量義経が書かれたものであることは、今日ではほとんど定説になっ ている。しかし、いずれにしろ、蓮長がそこに伝えられている年代順通りに経典を受け 入れ、妙法蓮華経に仏教の信仰の規準と、仏教にある多くの矛盾した見方を単純明快に 説明する言葉を見つけたことさえわかれば、我々にはそれで十分だ。この結論に達した とき、蓮長の喜びと感謝の気持ちは、涙となって溢れ出た。そして最後に、蓮長はこう 自問した。「父と母のもとを去り、このすばらしい教えに身を捧げた自分は、凡僧の古 い教えにしがみついて、仏陀自身の金言を求めようとしなくていいのだろうか」。この 神聖な志が芽生えたのは、20歳の時であった。もう、田舎の寺に引きこもってはいられ なかった。道善と寺の僧侶たちに別れを告げると、深く広く真理を究めるため、蓮長は 果敢に世に乗り出した。
 ……
 
〔人物評〕
 
 ……
 この恐れを知らない人物の勇気を支えていたのは、自分はこの世に送られてきた仏陀 の特別の使者だという確信だった。日蓮自身は名もない「海辺の旃陀羅(せんだら)が 子」であったが、法華経を伝道する能力においては、非常に重要な人物だつた。「私は 取るに足りない一介の僧侶です」、日蓮はある時、一人の権力者〔本間重遠〕に語った 。「しかしながら、法華経を広める者として、私は釈迦牟尼の特使であり、特使として の私の右には梵天が、左には帝釈天が仕え、日は私を導き、月は私に従い、この国のあ らゆる神々は頭をたれて私を敬います」。
 ……
 実際、日蓮の生涯は、性欲のないムハンマド(マホメット)の生涯のようである。激 しさと極端に熱狂的なところも同じなら、そのうえ、はっきりした目的のある誠実さや 豊かな慈愛を持っている点も同じである。日本人の方が、かのアラビア人よりも偉大で あったと思うところはただ一点、法華経に対する日蓮の確信は、コーランに対するムハ ンマドの確信よりも強かったところである。日蓮には、そこまで信奉できる経典があっ たため、物質的な力は必要なかった。人の力を借りなくても、法華経だけで十分な力で あり、法華経の価値を確立するために、どりような力も必要ではなかった。ムハンマド の偽善者の疑いを晴らした歴史は、日蓮をもっと正当に評価する方向に向かうべきだ。  そこで、日蓮から13世紀という時代の装いをはぎ取り、常軌をはずれた批判の認識の 仕方を取り除き、内面に宿る(偉大な人物は皆持っていると思われる)多少狂気じみた ところを取り除いてみると、そこには非凡な人物、世界でも最高の宗教家の一人が現れ る。日本人の中で、日蓮以上に独立独歩の人は考えられない。実際、日蓮は彼の創造性 と独立心によって、仏教を日本の宗教にしたのだ。日蓮の宗派だけが、純粋に日本の仏 教であり、他の宗派はすべて、インドや中国、朝鮮の精神にその起源を持っていた。日 蓮の大望もまた、彼の時代の全世界に自分の宗派を広めたいと願っていた。仏教はそれ まで、インドから日本へと東に向かって進んできたが、これからは改良された仏教が、 日本からインドへと西に向かって進むと日蓮は語っている。このように、受身で受容す るばかりの日本人にあって、日蓮は例外的な存在であり、自分自身の意志を持っていた から、ごく御しやすい人間でなかったことは確かである。しかし、そういう人物こそが 国家の支えになるのであり、愛想や謙遜、受容、「懇願能力」などという名で行われて いる行為の大半は国の恥でしかなく、改宗を勧誘する者たちが本国へ送る報告書の「改 宗者」数を増やす役に立つぐらいだ。戦闘的でない日蓮こそが、我々の理想とする宗教 家である。
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