[51 上杉鷹山]
 
出典:講談社インターナショナル(株)発行内村鑑三著「対訳・代表的日本人」
 
〔人となり〕
 
 当今では、人間をアダムのふつうの子孫以上のものだと思うのは時代遅れであり、特 に「神の恩寵と啓示の外」にある異教徒となれば、なおさらだ。それに我々は、自国の 英雄を神に祭り上げることで、たびたび非難を浴びている。しかし、誰と比べても鷹山 ほど欠点や弱点をあげるのが難しい人物もいないだろう。それは鷹山自身がどの伝記作 家よりも、自分の欠点や弱点を知っていたからだ。鷹山は文字通り、一人の人間であっ た。弱い人間であったからこそ、藩主の座につくとき、神に誓詞を献じたのだ。自身や 藩の危機に面して、鷹山が神霊に祈願したのは(それを弱さと呼ぶなら)弱さゆえであ る。江戸屋敷にいたある日のこと、国で孝行者に褒美を与えるため、その名を記した名 簿が鷹山のもとに届けられた。藩主が吟味し、承認を与えることになっていたからであ る。鷹山はそれにざっと目を通すと、師の講義が終わるまで物入れにしまっておくよう に命じた。しかし、講義が終わったときには、すっかり大事な用件を忘れてしまってい た。近臣の一人が「千乗の君」にあるまじき怠慢と、藩主を強く諌めた。藩主は深く恥 じ入った。その場に座ったまま悔恨の涙を流しながら一夜をあかし、「恥ずかしさで朝 食にも手をつけなかった」。その朝呼ばれた師が孔子の書物から一節を引いて、鷹山の 自責の念を取り除いた。そして、ようやく「食べ物が喉を通った」のである。これほど 鋭い感性の持ち主に対して、あまりに厳しい歴史批評を加えるのはやめようではないか 。
 しかし、鷹山の純粋さと高潔さは、家庭や家族関係に最もよく現れていた。倹約ぶり にはすでに触れた。米沢藩の財政への信用が十分に回復し、いくらでも豊かな暮らしが できるようになってからも、鷹山は最期まで木綿の着物と質素な食事で通した。畳は修 理がきかなくなるまで新しいものと取り替えず、破れた畳に自分で紙を貼っている姿が たびたび見かけられた。
 
 鷹山の家庭観は実に立派なものだった。賢者の言う「自己を修める者にしてはじめて 家を治め、家を整える者にしてはじめて国を統治することができる」〔修身斉家治国〕 という言葉を文字通り実行した。とくに、鷹山のような社会的地位の人間が側室を持つ 権利をだれも疑わず、大名ともなれば4、5人は側室を抱えていた時代に、鷹山は10歳 年上の側室を一人持っていただけだった。それも特別の事情があったからだ。鷹山は当 時の習慣に従い、成人前に親の決めた相手と結婚したが、その女性には先天的な知的障 害があり、知力はせいぜい10歳ぐらいだった。しかし、鷹山は心からの愛情と尊敬をも って妻に接し、玩具や人形を作り、あらゆる手を尽くして慰め、20年の結婚生活の間、 自分の運命に対する不満を微塵も見せなかった。二人はもっぱら江戸で暮らし、側室の 方は国元(米沢)に留め置かれ、障害のある妻にならぶ尊敬と地位は許されなかった。 そういうわけで正妻は子供を残さなかった。
 鷹山は当然のことながら、わが子を深く思いやる父親で、子供の教育には熱心に取り 組んだ。封建時代の藩主は世襲制なので、民の将来の幸福は、彼がどのような後継者を 残すかにかかっていた。鷹山は後継者教育の責任の重さをよくわかっていた。息子たち が、「大きな使命を忘れて、自分のことしか考えない人間にならないように」、「貧し い人々への思いやり」を教えた。鷹山の子供の育て方をみるため、彼が孫娘たちに送っ た見事な手紙の1通を紹介しよう。夫と江戸で暮らすために実家を出る最年長の孫娘に 宛てたものである。
 
 「人は三つの恩義を受けて成長する。父母と師と君である。それぞれの恩義の深さは 計り知れないが、とりわけ深く貴いのは父母の恩である。…この世に生をうけたのは父 母のおかげである。この身体が父母の一部であることを常に忘れてはならない。だから 、心の底から父母を大切にしなさい。真心さえあれば、もし過ちを犯したとしても、届 かないことはない。力不足だからこれはできないと思ってはいけない。真心がその不足 を補ってくれる。…領地を治めるということは、大きすぎて想像がつかないかもしれな い。しかし、領地を治める「もと」は、よく整った家にあると思いなさい。よく整った 家というのは、妻と夫の関係が正しいことが基本である。水源が乱れている川から、ど うしてまともな流れが期待できよう…年若い女である以上、着る物などに関心が向くの は当然である。しかし、これまで教えられた質素の心を忘れてはいけない。養蚕などの 女の仕事に励むとともに、和歌に親しんで心を磨きなさい。文化や教養にはしり、それ だけを目的としてはならない。学問は、この身を修める道を知るためのものである。し たがって、善を行い、悪を避けることを教える学問を選ばなくてはならない。歌を詠む と、ものの哀れを知る。月や花を歌に詠むことは品位を下げず、情操を高める。…あな たの夫は父として民を導き、あなたは母として民を慈しみなさい。そのとき民はあなた たちを親として敬う。これにまさる喜びがあろうか…
 繰り返しになるが、夫の両親には孝養を尽くしなさい。ご両親の心を安んじ、主であ り夫である人に従って、あなたが限りなく栄え、私の娘が生まれた国にふさわしい賢婦 人と仰がれることを願っています。
 
 武蔵野の江戸なる館に赴き給うはなむけに
 
 春を得て花すり衣重ぬとも わが故郷の寒さ忘るな
 
 (春が訪れ、花の衣装を身にまとう季節となっても、山里の父の家で過ごした冬を忘 れるなよ)
治憲」
 
 この勤勉な節制家は、健康に恵まれて70年の人生をまっとうした。若き日の望みはほ とんどなかった。藩は安定し、民の暮らしは楽になり、領内に豊かさが満ちた。藩をあ げても5両の金さえ工面できなかったのが、一声で1万両も集められるようになってい た。このような人物の最期が安らかでないはずはない。文政5(1822)年3月19日、鷹 山は最後の息をひきとった。「民はよき祖父母を失ったかのように泣いた。身分を問わ ず誰もが悲嘆にくれる様子は筆に尽くしがたい。葬儀の日、何万人もの人が沿道を埋め 尽くして葬列を見送った。合唱し頭を垂れ、一斉に号泣する人々につられ、山川草木も こぞってこれに和した」と、伝えられている。
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