69 孝明天皇
 
(前略)
 幕府が力を失って万事朝廷の御指導を仰ぐようになりましたのは、孝明天皇の御徳に よる事が大きいのでした。孝明天皇は、弘化三年(西暦一八四六)二月、御年十六歳に して御位をお継ぎになりましたが、お継ぎになって間もなく、アメリカの軍艦が浦賀へ 来ましたが、天皇は之を聞こしめされて、「小敵といえども侮らず、大敵といえども恐 れず、善く謀をめぐらして、国体に瑕瑾(きず)をつけないよう、十分に処置せよ」と の勅諭を幕府に下されたのでありました。
 
 嘉永四年、天皇は御年二十一歳でした。その三月、勅命によって和気清麻呂を神とし て祭り、護王大明神の神号と、正一位の位とを贈られました。それはかって道義地に墜 ち、国家革命に瀕した時、清麻呂が「身の危きを顧りみず、雄々しく烈しき誠の心を尽 く」した事を、御追賞あそばされての事でありますが、佐久良比東雄は之を承って感激 に堪えず、直ちに雨を冒して高雄山に登り、護王大明神の神前にぬかずき、
 皇まもる 神のまします 高雄山
  あかき心の みゆる紅葉
と詠んだのでした。
 
 嘉永六年六月、ペルリが浦賀へ来るに及んで、幕府は非常なる動揺に陥りますが、天 皇は四海の静謐、国体の安全を伊勢神宮に御祈り遊ばされ、ついで熱田宮を初め諸大社 に仰せて、「神明の冥助によって神州を汚さず、人民を損せず、国体安穏、天下泰平」 ならん事を祈られました。
 
 また御歴代天皇の御陵の荒廃をお歎きになり、その御修理の為に、文久二年十月十日 正親町実愛、野宮定功等を御用掛に任命せられましたが、幕府も之に感激して、宇都宮 藩主戸田越前守の名代、戸田忠至を差し上せ、朝廷の御指図を仰がれましたので、朝廷 では忠至を山陵奉行に任命し、ついで之を大和守に任ぜられました。数百年の間荒廃し ていました御陵は、これまで水戸光圀が歎き、野宮定基が歎き、松下見林が歎き、柴野 栗山が歎きましても、歎くだけでどうにも出来なかったのが、今や孝明天皇の御徳によ って、一斉に御修理が出来たのでした。しかもそれが文久、元治、慶応年間、内外大混 乱の際に、ひろく全国にわたって、百箇所あまりの御陵の御復古が出来たのは、驚くべ き事であります。この御修理に尽力した宇都宮藩主戸田越前守が、ある事件で幕府より 減封移転を命ぜられた時、勅命によってそれが中止せられた事、また御陵の修理が出来 上がった時、将軍家茂に従一位を授け給うた事、いずれも今や日本国の中心が朝廷にあ り、賞罰の大権が天皇にある事を示すのでした。
 
 孝明天皇の御歌は、洩れ承る国民をして感激惜くあたわざらしめました。
 朝夕に 民安かれと 思ふ身の
  心にかかる 異国(とつくに)の船
 国安く 民のかまどの 賑ひを
  見も聞きたきぞ 我が思なる
 日々日々の 書につけても 国民(くにたみ)の
  安き文字こそ 見まくほしけれ
この御徳に感動して、安政の大獄に倒れた梅田雲浜は、
 君が代を 思ふ心の ひとすじに
  我が身ありとも おもはざりけり
と歌い、同じく大獄に追われて薩摩の海に身を鎮めた僧の月照は、
 大君の 為には何か 惜しからむ
  薩摩の瀬戸に 身は沈むとも
と歌い、桜田門の変の関係者として獄死した佐久良東雄は、
 わが為に 何祈るべき さいはひも
  君がためにと 思ひこそすれ
と歌ったのでありました。
(中略)
 
 長州藩一つだけの処分さえ出来ず、困り切っていた幕府にとって、薩長の同盟が出来 たと云う事は、前途を危うくすると云うよりも、むしろ絶望に陥らしめるものでありま した。その非運のうちに、慶応二年七月、将軍家茂は病没し、やがて一橋慶喜がその後 をついで将軍に任ぜられました。慶喜は英明を以て聞こえた人物でありますが、安政の 大獄以前ならばともかく、慶応の今となっては、たとえ将軍職に就いても、どうにもし かたが無かったでしょう。然し天はこの人に重い任務を与え、大きな仕事をなさしめよ うとするのです。それは何かと云えば、大政の奉還であります。
 
 問題がここまで進んできた時、慶応二年十二月、我が国は大きな不幸に見舞われまし た。孝明天皇のおかくれが、それであります。御年三十六歳でありました。御位にまし ます事二十一年、内外非常に多事であり、多難でありまして、平穏無事の日は殆どあり ませんでしたが、常に国体の安全と国民の幸福とを御祈り遊ばされる大御心に対しまし ては、上下とも感泣して之を仰ぎ、之に報い奉ろうとして、その為に朝廷の御威光は輝 きわたったのでした。
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