48a 北条時宗
 
 文永・弘安の両度とも、暴風が日本に幸いしたものですが、然しそれは我が軍が勇敢に 戦って、容易に敵の上陸を許さず、敵兵は仕方なしに船に留まっていたからこそ、暴風 によって顛覆したのであります。それに弘安四年の大風以後、その掃蕩戦が頗る烈しか った事は、家々の記録に見えています。善く戦ったのは、少弐、大友、島津、秋月、菊 池、竹崎、河野、大矢野等の将士でありました。
 
 流石の元も、二度の失敗に懲りて、日本を侵略する事は、結局思い切りました。欧・亜 の両大陸、つまり当時の全世界、どこを攻めても必ず之を征服する事の出来た元も、日 本国だけは、どうにも出来なかったのです。それには、海中に独立している天険の利も ありますが、いかなる大軍をも恐れず、勇戦奮闘して之を撃滅した将士の功績が大きく 、更にその根本には、朝廷及び幕府の毅然たる態度があった事を忘れてはなりません。
 
 朝廷では、亀山上皇が、御身を以て国難に代わりたいと、伊勢大神宮に御祈りになり ました。その事は、増鏡と云う書物に見えていますが、上皇の思し召しは、次に掲げる 御歌によって、拝察する事が出来ます。
 
 世のためも風をさまれと思ふかな 花の都の春のあけぼの
 ゆくすゑもさぞな栄えむ誓いあれば 神の国なる我が国ぞかし
 ちはやぶる神の定めむわが国は うごかじものをあらがねの土
 命にもかへばやとおもふ心をば 知らでや花のやすく散るらむ
 この世には消ゆべき法のともし火を 身にかへてこそ我は照さめ
 世のために身をば惜しまぬ心とも あらぶる神は照らし見るらむ
 
 之を、前に菅原長成に命じて作らせられた元への返書の草案と照らし合わせて考えま す時、朝廷における国体の自信がいかに強く、愛国の誠意がいかに熱烈であったかが、 うかがわれます。
 
 次に幕府の中心人物は、云うまでもなく北条時宗、文永五年十八歳にして執権となり 、文永十一年には二十四歳、弘安四年には三十一歳の若さで、国防の全責任を双肩に担 い、海を覆うて襲い来る元の大軍を目の前にして微動もせず、遂によく之を粉砕したの でした。済んだあとからみれば、何でも無かったように思われるものの、実際その当時 の苦心は、生やさしいものでは無かったでしょう。時宗は、支那より徳の高い禅僧を招 いて、心を養う上の指導者としました。支那では宋の国が、元の為に亡ぼされ、世の中 乱れた時でしたから、すぐれた人物は、喜んで日本国の招きに応じ、来朝して相談相手 になってくれました。文永六年に来ました正念は、時宗に向かって説きました。
  分別の念を起す勿れ。
  回避する処なかれ。
 第一は、あれかこれかと分別し、小さい智慧を働かせて、くよくよしてはならぬ、と 云う事です。第二は、一歩も横へよけてはならぬ、いかなる強敵の襲撃も、真正面に之 を受けて、強烈に対決するが良い、と云うのです。時宗はこの忠告を受け取りました。 時宗の足取りをみるに、大戦を避けようとして動いた形跡は少しもありません。
 
 弘安元年十二月、時宗は元の第二回の来襲近しとみて、禅僧二人を支那に派遣し、す ぐれたる人物を求めさせました。白羽の矢が立てられたのは、祖元でした。時宗は、祖 元に対して、途中何人にも会う事なく、まっすぐに鎌倉へ来る事を頼みました。祖元は それを承諾しました。彼はすでに支那において、元の兵士の乱暴を経験していました。 元の兵士、彼の寺を襲い、彼の首に刀をあてました。彼は少しも恐れず、落ちついて詩 をよみました。その詩の下の句は、
  珍重す、大元三尺の剣、
  電光影裏、春風を斬る、
と云うのでした。驚いたのは元の兵士、大いにあやまって逃げて行ったと云います。こ のすばらしい人物が、迎えられて鎌倉へ来たのです。弘安四年、元の第二回の来襲の前 に、時宗は祖元をたずねました。祖元は、之に何を与えたかと云いますと、「煩悩する なかれ」と云う教えでありました。どう云う意味ですかと時宗が尋ねたところ、「いず れ春の終わりか夏の初めに、博多で騒ぎが起こるであろうが、心配するな、じきに静ま るから」と云いました。祖元は弘安四年の来襲を事前にあらかじめ察知していたのです 。そして時宗に教えたのは、前の正念と同じく、「くよくよするな」と云うに尽きるの でありました。
 
 司令官があわてたり、恐れたりしては、話になりません。船では船長、飛行機では機 長、そして幕府では執権、これが大切なのです。文永・弘安二回の大国難に当たり、時宗 が執権の座にあった事は、日本国の大幸でありました。北条氏九代、時政より高時に至 り、よくない人物つづきました中に、ひとり時宗は、大国難に遭遇して、よく国防の重 責を果たし、北条一門の罪を償おうとしました。かえりみれば源氏は、尊王と尚武との 二つの長所と、残忍刻薄と云う欠点とをもっていました。その中から尊王を抜き去って 、尚武と残忍との性格のみ伝えたものが北条氏でありました。その北条九代の中で、日 本国の為に貢献するところの大きかったのは、時宗でありました。彼にもまた、弟を討 つと云う欠点はありましたが、元の来襲を撃退した事は、大きな功績としなければなり ません。
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