45 源頼朝(下)
 
(前略)
 源氏三代三十五年の総決算を考えますと、これまで述べてきたところ以外に、重大な 功績があって、それさえあれば、源氏は三十五年で終わっても、頼朝出現の意義は大き いと思われるものがあります。それは何かと云いますと、日本の国体、つまり国柄につ いて、深い自覚があり、朝廷を尊び、朝廷への御奉公を当然のこととし、むしろ最上の 喜びとした事であります。
 
 平家を屋島に攻め、壇の浦に攻める時、平家と一所におわします安徳天皇の御身の上 を、最も心配して、何とか御無事にお迎えしたいと考え、懇々として出先に指示したの は、頼朝でありました。範頼に宛てた書状の中に、
 「返す返す、この大やけの御事、おぼつかなき事なり。いかにもいかにもして、事無 きやうに、沙汰させ給ふべし。」
と云い、またくりかえして、
 「猶々返す返す大やけの御事、事なきやうに沙汰せさせ給ふべきなり。」 と訓示しています。「大やけ」は「公」、天皇を指し奉る言葉、ここでは安徳天皇の御 事であります。
 
 文治元年の夏、尾張の国に玉井四郎助重と云う者があって、もともと乱暴者であり、 人々を困らせていましたが、それが今度は、勅命にそむいたかどで、召喚せられたのに 、出頭しないばかりか、かえって朝廷に対して誹謗の言葉を吐きました。その報告を詳 しく聴いた頼朝、何と云ったかと思いますか。
 「綸命(りんめい)に違背するの上は、日域に住すべからず。関東を忽緒せしむるに 依りて、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべし。」
 
 綸命は勅命、日域は日本、忽緒はないがしろにする事です。つまり、勅命にそむく以 上は、日本国に住む事は許されない、幕府の指示に従わない者は、鎌倉へ来て保護を受 ける事は出来ない、早速日本国の外へ出て行くが良い、こう云って国外追放を宣告した のです。何と云うあざやかな、何と云う痛快な裁決でありましょうか。それが口先だけ の説教で無く、天下兵馬の権を握る者の言葉でありますから、一言直ちに実行に移され 、違背すれば忽ちに首が飛びます。それ故にこれが人々に与えた影響は、実に重大であ ったに違いありません。
 
 朝廷に対して失礼な輩に対しては、かように厳しい裁断を下しましたが、朝廷からの 御申付けに対しましては、うやうやしくお請け申し上げて、むつかしい事でも、決して ためらっていません。文治五年の春、内裏の建築費を献上するようにと御下命がありま した時なども、
 「仰、跪いて以て承り候ひをはんぬ。」
と書き起こして、「たびたびの御申付でござりますが、あれをおつとめしましたから、 これは御辞退申し上げたいなどと云う考えを、少しも持っておりません、朝廷で御必要 な事は、幾度でも、頼朝こそ奉仕すべきでござりますから、力の及びますかぎりは、奔 走させていただきます」と申し上げています。
 
 伊勢大神宮は二十年に一度御造営になる規則でありますが、建久二年の春、その費用 を献上しない地頭がありました。朝廷よりその旨を鎌倉へ達せられましたところ、頼朝 は、「この事は申すまでもござりませんが、こればかりでなく、凡そ朝廷の御命令にそ むく者は、法に随って御処分を願い上げます、或いは仰せによって頼朝かから処分しま しても、よろしゅうござります、第一に頼朝自身でさえ、法にそむきました場合には、 御叱りをいただくべきでござります、まして頼朝の家来どもに対しまして、一切御遠慮 は御無用でございます」と御答え申し上げています。
 
 この時、日本国の運命は、頼朝一人の双肩にかかっていました。彼の思想、信念、そ の一挙一動は、天下の人々、仰いで之に注目していました。従って若しも彼にして国柄 をわきまえず、朝廷に対して傲慢であり、伊勢大神宮に対して不遜であったならば、武 士共は皆之にならい、失礼を働いたかも知れない情勢でありました。しかるに頼朝は、 跪いてうやうやしく勅命を承り、いかに困難な事でありましても、勅命とあれば必ず奉 仕させていただきますとお誓い申し上げ、そして勅命に従わない武士に対しては、「日 本国から出て行け」と、厳然として言い放ったのであります、この一言は、国家の本質 を安定して、微動もさせない力をもっていました。そしてその拘束力は、源氏三代の間 だけでなく、鎌倉幕府全体に及び、それどころでなく、足利も、徳川も、皆頼朝を模範 として起ったもので、頼朝の前には頭があがらなかったのですから、室町幕府も、江戸 幕府も、大局から見れば頼朝の指導拘束を受けたと云ってよく、従って幕府と云うもの 、変体は変体ながら、日本国の本質を変えるに至らなかったのは、頼朝のあのすばらし い一言によると云ってよいでしょう。
  next