28 源氏物語
 
 「いろは歌」が作られてより百年近くたって古今集が作られましたが、古今集より百 年ばかりたつと、枕草子と源氏物語とが作られました。古今集は、以後千年の間、歌壇 に最高の地位を占めますが、小説として同様に最も重んぜられてきたものは源氏物語で あり、国文学として之と肩を並べるものは枕草子です。
 
 枕草子は、清少納言の作ったものです。清と云うのは、その家が清原氏であったから ですが、この家は天武天皇の皇子舎人親王から出ていまして、代々文学にすぐれた才能 をもっていました。(中略)
 
 清少納言は、一条天皇の皇后にお仕え申し上げていました。
 枕草子は日記でも小説でも無く、随筆です。数年の間に、気のむくままに書きためた もので、出来上がったのは、一条天皇の長保年間でしょう。(中略)
 
 その清少納言と時代を同じうして、文学の上では競争者として現れたのが紫式部です 。父は藤原為時、長い間式部丞(式部省の事務官)をつとめたので、地方長官になりた いと希望をもっていました。長徳二年正月、その希望はかなえられたが、ふたをあけて 見ると、淡路守でした。為時、之を悲しんで歎願書を一条天皇にたてまつりました。天 皇之を憐れみ給い、俄に任地を越前に変更せられました。為時は感激して、女の紫式部 をつれて、越前(福井県)の国府(武生市)へ赴任しました。女子とは云え、才学は兄 の惟規よりもすぐれ、兄が史記を学ぶのを傍で聴いていて、兄よりも先に覚えてしまう ので、「嗚呼この子が男であったら」と、父が歎いた事、紫式部日記に書いてあります 。そのような事情で、十八、九歳の頃、しばらく越前へ下ったのが、紫式部の京都を離 れた唯一の経験で、父が次に越後守に任ぜられた時には、ついて行ったのは兄の惟規だ けで、紫式部は京に留まり、そして藤原宣孝に嫁ぎました。(中略)
 
 式部は、結婚後三年ばかりで夫が亡くなったので、数年の間、寂しい生活をしました 。そしてやがて一条天皇の中宮上東門院に宮仕えする事になりましたが、その前の寂し い生活の間に、源氏物語を書いたとみえて、宮仕えの時には、それが一条天皇の御目に とまり、人に読ませてお聞きになって、「この物語の作者は、日本紀を読んでいるので あろう、誠に才のある筆である」と仰せられたので、宮中では、式部にあだ名して、「 日本紀の御局」と云った事が、日記に見えています。日本紀と云うのは、日本書紀の事 です。
 
 源氏物語と云うのは、皇族であって臣籍に下り、源氏の姓を賜った人、源光と云う美 しい貴公子を主人公として、その一生、多くの女性との交際を描写したものですが、全 部で五十四帖(帖はこの場合、巻と解すればよろしい)、すこぶる長篇で、根気よく之 を書きつづけた事だけでも、驚歎すべき事ですが、それが実に美しく描かれています。 (中略)
 
 イギリスで最も尊重せられているのは、シェークスピア(Shakespeare)でしょう。( 中略)そのシェークスピアが生まれたのは、西暦一五六四年、亡くなったのは一六一六 年、それにくらべると紫式部は六百年ばかり前になります。ドイツで誇りとされる文豪 は、ファウスト(Faust)を書いたゲーテ(Goethe)でしょう。ゲーテの生まれたのは一 七四九年、亡くなったのは一八三二年ですから、紫式部におくれる事、八百年です。( 以下略)
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