24 平仮名 奈良時代に留学生として支那へ渡った阿倍仲麻呂の詩文が、唐の文壇においてもては やされ、唐第一流の詩人李白等と親しく交わった事は、前に述べました。平安時代の初 めになると、最澄も、空海も、かの地へ行って直ぐに、天台なり、真言なりの最も深い 哲理を理解し、唐のすぐれた高僧の信頼と尊敬をかち得て、その正しい伝統をうけつい で帰ってきたでしょう。さあ、こうなると、学問においても、文芸においても、宗教に おいても、日本人に自信がつき、日本人としての自覚が生じてくるのは当然で、これよ り日本は日本として独自独特の文化を発展させるようになりました。そしてその為に、 大きな貢献をしたものは、仮名の発明であります。 これまで我が国には独自の文字は無く、字と云えば漢字でありました。ところがその 漢字を利用するのに、日本独特の方法を用いました。即ち漢字を、支那風に音(おん) で読む事もありますが、その下に今一つ訓(くん)で読み、音と訓とを自由自在に使い こなしてきたのです。たとえば「音」と云う字、「オン」と読めば音読、「おと」と読 めば訓読です。「山」と云う字、「サン」と読めば音読、「やま」と読めば訓読です。 かように音と訓とを自由に使いこなして、支那の古典も日本風に読みました。(中略) そこへ平仮名が発明せられたのです。これは漢字を草書体で書いているうちに、段々 簡単な形となり、また自然に一定の形に落ちついて出来てきたのです。 い − 以から、 ろ − 呂から、 は − 波から、 に − 仁から、 ほ − 保から、 へ − 部から、 と − 止から、 ち − 知から、 り − 利から、 ぬ − 奴から、 る − 留から、 を − 遠から、 わ − 和から、 か − 加から、 よ − 與から、 た − 太から、 れ − 禮から、 そ − 曾から、 つ − 川から、 ね − 禰から、 な − 奈から、 ら − 良から、 む − 武から、 う − 宇から、 ゐ − 爲から、 の − 乃から、 お − 於から、 く − 久から、 や − 也から、 ま − 末から、 け − 計から、 ふ − 不から、 こ − 己から、 え − 衣から、 て − 天から、 あ − 安から、 さ − 左から、 き − 幾から、 ゆ − 由から、 め − 女から、 み − 美から、 し − 之から、 ゑ − 惠から、 ひ − 比から、 も − 毛から、 せ − 世から、 す − 寸から、 そしてこれ等の平仮名を一つにまとめて覚えさせたものに、古くは「あめつちほしそ らやまかはみねたにくもきり」とつづけたものも、ある事はありましたが、結局は「い ろは歌」が決定的なものとして勝ちを占め、千年の寿命を保って、今日に至っているの です。 その「いろは歌」は、誰によってつくられたものであるか、不幸にして明瞭ではあり ません。然しそれは非常な英才でなければ、作れるものではありますまい。すべて四十 七字あって、然も一字も重複していない事を、必要とするものですから、ただ単語を並 べるだけでも、すでにむつかしい作業であるのに、それに意味をもたせて、韻律をつけ て、仮名の手本であると同時に、立派な詩とした手際は、凡人ではありますまい。 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず 詩の内容から見れば、明瞭に仏教の思想ですから、僧侶が作ったものとして良いでし ょう。僧侶の中でも、よほどの英才で、才気かがやき、詩情溢るる人で無ければなりま すまい。(中略) (略)それに今一つ、証拠として良いものが、凌雲集と云うふるい漢詩集にあります 。それは光仁五年(西暦八一四年)に作られたもので、従って空海の生きているうちの ものです。仲雄王が、空海を閑静な寺に訪ねて、その人柄と功績とに感激して作った詩 の中に、「字母、三乗を弘め、真言、四句を演ぶ」とあります。その四句は、「いろは 歌」をさすものと判断せられますから、「いろは歌」は、空海の作で、然も光仁五年よ り前(そして大同元年帰朝以後)に出来たものと考えられます。 空海にはいろいろと、功績が沢山ありますが、然し万人がその恩恵にあずかり、千年 を経て尽きないものは、この「いろは歌」を作ったと云う事でしょう |
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