15 藤原京
 
 大海人皇子、即位して天武天皇とおなりになり、御在位十五年でおかくれになります と、次には皇后が御位をお継ぎになり(持統天皇)、十一年後に御孫文武天皇にお譲り になります。この三代三十数年の間に、国の体制が、段々とととのえられて、それが次 の奈良時代に花と咲き匂うようになるのです。例をあげるならば、歴史の編修がその一 つです。天武天皇の十年(西暦六八一年)、川島皇子や忍壁皇子、その他十人ばかりに 命じて、帝紀及び上古の記録を整理させられると共に、別に稗田阿礼と云う、記憶力抜 群の青年(時に二十八歳)に命じて、太古からの口伝を一筋にまとめて朗誦せしめられ ました。その前者は、やがて日本書紀となって完成し、後者はまた、書きおろされて古 事記となるのです。(中略)
 
 次ぎに持統天皇の八年に、藤原京を作ってお遷りになりました。これ以前は、帝都と 云っても万事簡略で、御一代ごとに皇居が変わり、或いはまた御一代の中にも、いくつ かお遷りになる事があり、その皇居を中心として政治をとる役所、政治に当たる官吏が 集まったのでした。そして中には、仁徳天皇のように難波(大阪府)においでになった り、天智天皇の如く大津(滋賀県)にお遷りになったりした事もありますけれども、大 抵は大和(奈良県)の内であり、殊に推古天皇以後は、大和の内の飛鳥(奈良県高市郡 明日香村)地方に限って皇居をお定めになりました。推古天皇の豊浦宮、舒明天皇の飛 鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、天武天皇の飛鳥浄見原宮な ど、いずれも飛鳥地方の内で、御選定になったものでした。
 
 かように御一代ごとに変わるのでは、建築も永久的でなく、都市としても壮麗なもの を期待する事は出来ません。そこで今、持統天皇の四年、天皇は重臣を従えて、藤原の 現地を御検分になり、ここに宮殿を建てて、八年の十二月、お遷りになりました。その 都全体は、南北十二条に分かち、その一条は左京も右京もそれぞれ四坊に別れ、その北 方の中央には、十六坊に相当する広さの球場があり、その中に大極殿、十二の朝堂、東 西の朝集堂があったでしょう。整然たる都市、堂々たる宮殿の現出に、人々は非常な感 激を覚えたでしょう。(中略)
 
 文武天皇の御代に、律令が制定せられました。律と云うのは、「しては、いけない」 と規制するもの、刑法と云えばよいでしょう。令は「すべし」と云うもの、官職規定が 、之に当たるでしょう。それらは天智天皇の御代に、先ず手を着けられ、天武天皇の御 代に更にととのえられましたが、文武天皇の御代にまた改めて制定せられ、大宝元年( 西暦七〇一年)に完成しました。律が六巻、令が十一巻、その中には、後世失われて無 くなった部分もあるが、大部分は元のまま残っており、また無くなった部分も、他の書 物に引用せられている文を拾い集めて、大抵元の形が分かるようになっています。
 
 今大宝令の中で、官庁の役人の組織を見ますと、最初に神祇官、次ぎに太政官となっ ています。神祇官の方が太政官より重いと云うわけでは無いが、神を尊んで、神事は他 の一切の事に先行すると云う考えから、之を太政官の前に置かれたのでしょう。太政官 には、少納言局、左弁官局、右弁官局の三つがあって、少納言、左大弁、右大弁が、そ れぞれその局の責任をとります。そしてその三局の上に、四人の大納言があり、その上 に右大臣一人、またその上に左大臣一人、ここで太政官の政務は統括されますが、その また上に太政大臣があります。これは天皇の御指南役となり、国民の理想像となり、ひ ろく外国からも尊敬せられる事を必要とするので、「その人無ければ則ち闕けよ」とあ って、適当な人物がいない時には、欠員のままで置く事になており、よって之を則闕( そっけつ)の官と云いました。
 
 太政官の下にあって行政事務をとるものは八省ですが、それは四つずつに分かれて、 左右の大弁に附けられています。
  左大弁 中務省(宮中の政務)
      式部省(礼式・教育・査察)
      治部省(音楽・僧尼・外交)
      民部省(戸籍・租税)
  右大弁 兵部省(兵士・軍事)
      刑部省(裁判・処刑)
      大蔵省(貨幣・租税)
      宮内省(宮中の御用)
 
 これが中央官庁のあらましですが、地方には、都に左京職・右京職があり、九州には大 宰府が置かれ、国には国司、郡には郡司が置かれました。それらの役所の官吏は、それ ぞれ、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」の四等に分けられ、上下の秩序を明らか にし、権限と責任とを混雑しないようにしてありました。その「かみ」「すけ」等は、 役所によって漢字は違った文字を使って、しかも読む時は同じでした。たとえば、「か み」に、卿もあれば、頭もあれば、督もあれば、また守もあり、「すけ」に、輔もあれ ば、亮もあり、佐もあれば、介もあると云う風でした。それ故に、文字を見れば、どの 役所かが大抵分かるのです。
 
 こり等の官制はその後、いくらか変化がありました。たとえば、中納言が置かれたり 、参議が新設せられたり、検非違使が出来たりしましたが、大体は元のまま長く伝わっ て、明治十八年に及んでいます。大宝元年から明治十八年に至ると云えば、この官制は 千百八十四年の間、生きつづけていたわけあります。日本と云う国の国柄は、こう云う ところにもよく現れています。
 
 大宝元年に、今一つ注意すべき事があります。そりは遣唐使を任命された事です。即 ちその正月、粟田真人を執節使に任じ、高橋笠間を大使とし、その下に副使以下の随員 を附けて、翌年六月出発させられました。船の準備その他に、一年かかったわけです。 出発してより二年後の慶雲元年七月、真人は帰って来ましたが、その報告が面白い、海 を渡って唐へ上陸した時、先方の人が尋ねた。「何の国のお使いですか。」答えて云う 、「日本国の使です。」そして今度はこちらから尋ねた、「此処は何処ですか。」先方 は答えた、「大周(だいしゅう)の楚州(そしゅう)塩城県(えんじょうけん)です。 」また尋ねた、「今までは大唐(だいとう)であったのに、何時大周と改められたので すか。」先方は答えた、「大唐の高宗亡くなって後、則天武后(そくてんぶこう)即位 して皇帝となり、国号を大周と改められたのです。」問答が一段落ついたところで、先 方の人が云うには、「海を越えて東に日本国があって、その国民は経済的にも富み栄え ているが、精神的には礼儀にあついので、君子国と云われているとは、しばしば耳にし たところですが、今使節を見ると、まことに清らかな風貌であり、礼にかなった態度で 、かねての噂に違わぬ事が分かりました。」こう云って別れ去った、と云うのです。こ の報告は面白いでしょう。唐の太宗・高宗の世、勢力は未曽有の隆盛を誇った事、前に述 べた通りですが、その高宗の没後、皇后の則天武皇后が国を奪い、その革命は一時成功 して、十五年間、唐を改めて周と号したのでしたが、それがこの報告にも現れています 。またこの報告によれば、遣唐使の船は、九州から西南に海を渡って、揚子江の流域へ 向かって事が分かります。文武天皇の御代には、種子島・奄美大島等の人々、朝廷より位 を賜ったり、薩摩の国では賊を平らげて、防備をきびしくしたりした事が見えています から、遣唐使の船が、南方航路をとった事と併せ考えて、国威が西南方に延びた事が分 かります。
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