11 聖徳太子(上)
 
 継体天皇の後には、安閑・宣化・欽明の三天皇、次々に御即位になります。三天皇とも 、継体天皇の皇子です。朝鮮半島では、その頃、百済が高句麗に奪われた領土を取り戻 そうとして、我が国の援兵を乞い、進んで平壌を討ったり、また新羅が百済を攻めてそ の王を殺したりするなど、中々多事でありましたが、重要なのは、その百済の聖明王が 仏教を伝えて来た事です。日本書紀は、それを欽明天皇十三年の冬十月の事として、金 銅の釈迦像一体、その装飾の仏具、及び経論の書物を献上し、そして、
 
 「仏教は諸の宗教の中で、最もすぐれたものであります。それは、頗るむつかしいもの で、支那の聖人と云われる周公や孔子も、理解出来なかったものであります。その教え は、広大であって限りも無く、この教えを信ずれば福徳が授けられ、人々安心を得るの であります。遠くは天竺(印度)より三韓(朝鮮)に至るまで、之を信じ、之を尊ばな いものはありません。それ故に今百済王は、之を日本国にお伝え申し上げるのでありま すが、それはお経の中に、ひろく東方に流伝せんとある、その仏の誓約を果たすのであ ります。」
 
と奏上しました。天皇は、之を採用すべきかどうかを、独断し給わず、群臣を召して、 意見を求められました。ところが、意見は二つに分かれました。採用するが良いと主張 したのは、蘇我稲目、
 「西隣の国々、皆之を信じ、之を敬っている以上、日本だけが、之にそむくべきでは ありますまい。」
と論じます。反対したのは、物部尾輿と中臣鎌子、
 「日本には日本の神々がおいでになり、春夏秋冬、神をお祭りになる故に、皇国は繁 栄するのであります。今それを改めて、外国の神を礼拝まれますならば、恐らくは、日 本の神々の怒りを招くでありましょう。」
と主張します。そこで天皇は、国家として之を採用せず、蘇我稲目個人として、希望の ままに礼拝させる事をおきめになりました。稲目は大喜びで、その仏像を自分の家に安 置し、家を浄めて寺としました。しばらくたつと伝染病が流行して、死者多数にのぼり ました。尾輿と鎌子とは、「是れ即ち仏を尊ぶ者のある事を、神々は喜び給わず祟りを なさるのであるから、いそぎ仏像を棄てられるがよい」と云いましたので、朝廷では、 仏像を難波の堀江に流し、寺には火をつけて焼かせられました。その後、両派の争いは 段々烈しくなり、それぞれ兵を集めて睨みあう様になりましたが、やがて推古天皇御即 位になり(西暦五九二年)、聖徳太子を皇太子に立て、摂政と定められましたので、仏 教はこれより大いに興る機運に向かいました。
 
 欽明天皇の後、敏達・用明・崇峻・推古の四天皇は、いずれも欽明天皇の御子であり、そ して聖徳太子は用明天皇の御子でありましたから、推古天皇から見れば御甥に当たられ ます。推古天皇は女帝でましました故に、この聡明なる御甥を、将来皇位をお譲りにな るべき皇太子と定め給うと同時に、さしあたっては摂政として政治を代行させられまし た。
 
 聖徳太子と云うのは、御徳をほめたたえてお呼び申し上げた名で、本は厩戸皇子と申 されました。厩戸皇子と云う名は、御母后が宮中御散歩のみぎり、厩の前へさしかから れた際に、御出産になったからだと伝えられています。非常に御聡明で、一時に八人の 訴えをお聴きになり、少しもあやまち無く、之を裁決し給うたので、八耳皇子と申し上 げて感嘆したと云います。摂政とならせ給うた時、御年は二十歳でありました。しばら く不幸不運が続いて、稍衰えていました朝廷の御威光も、今やこのすばらしい皇太子の 摂政を迎えて、燦然として輝くようになります。
 
 太子の新しい政治は、先ず冠位の制定に始まります。推古天皇の十一年十二月、冠位 十二階を定め、人物を選んで之を授けられました。十二階と云うのは、
 「大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智」
で、つまり徳仁礼信義智と云う六つの徳目を、それぞれ大小に分けられたものです。そ してその位によって、冠の色が違っているので、冠位と云われるのですが、これまでは 氏族によって尊卑の差別があっただけでしたが、これからは個人の人物功績によって、 朝廷より認められた新しい上下の秩序が立つ様になってきたのです。これが承けつがれ 、発展して、後世の位階制度となるのです。
 
 新政の第二は、憲法の制定です。推古天皇の十二年四月、太子は親ら憲法十七条を作 られました。その第一条には、
 「和を以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」
とあって、先ずやさしい心で人々が交わり、衝突し、抗争する事の無い様に心懸けよよ 、と諭されたのであります。第二条には、
 「篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏・法・僧なり。」 とあります。これは人々の争いをやめさせるには、仏教によって反省させるが良い、と 考えられたからです。以上は、当時まだ教育も不十分であり、道徳の修練もゆきわたら ず、我執が強く、反省が弱く、とかく争いが起こりがちで、このままで行けば、乱れる 恐れのある世の中を、正しく誘導して行くために、先ず基本的な心構えを諭されたので あります。
 
 そして第三条、これが重大です。
 「詔を承けては、必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。天は覆ひ、地は載す。四時 順ひ行ひ、万気通ふことを得。地、天を覆はむとするときは、壊るることを致さむ。是 を以て、君のたまふことをば、臣承る。上行ふときは、下靡く。故に詔を承りては必ず 慎め。謹まずば、自づから敗れむ。」
 
 国家の基本として、最も大切なるものは、君臣の関係です。君臣の関係が乱れる時は 、国家は顛覆してしまうのです。憲法は之を説明して、国家における君臣の関係は、自 然界における天地の関係と同じであって、もし天と地とが逆になり、さかさまに置かれ る時は、自然界は大混乱を生じ、破滅を来すであろう、それと同様に、国家においても 、君はあくまで君であり、臣はどこまでも臣であって、それが逆になる事は無く、もし 之を逆にしようとすれば、その時は国家は滅亡するのである、それ故に、君の御命令は 、必ず謹んで承り、決して之にそむいてはならぬ、と諭し誡められちのであります。
 
 この第三条は、憲法の根本となる重大な条項でありますが、それについで、猶種々の お諭しがあります。今その要点をあげますと、
 第四条 礼を重んぜよ。政治の本は、礼である。官吏が礼を重んずれば、秩序は乱れ ず、国民礼ある時は、国家は自然に治まる。
 第五条 訴訟を聴くに当たって、決して賄賂を取らず、貧しい者に対しても公平なる 裁判をしなければならぬ。
 第六条 善行は必ず之を表彰し、悪事は必ず之を懲罰せよ。
 第七条 賢哲の人を挙げて官吏とせよ。
 第八条 官吏は早朝出勤して、おそく退庁せよ。
 第九条 信を重んぜよ。成功するか、失敗するかは、信の有ると、無いとにかかる。
 第十条 我執を去って反省せよ。他人をのみ責めてはならぬ。
 第十一条 賞罰は、必ず功過に当たるようにせよ。
 第十二条 国民より租税を徴収するのは、只君だけである。君以外の国司や国造は、 結局君の官吏に過ぎないのであるから、自分として税を取ってはならぬ。
 
 この第十二条に、「国に二君あらず、民に両主無し、率土の兆民は、王(きみ)を以 て主とす、任ずる所の官司は、皆是れ王の臣なり」と云う有名な文があります。これは 当時の地方官の僭越を誡しめられたもので、前にあげた第三条と共に、天皇の大権を明 確に宣明されたものであります。
 
 さてこの憲法十七条、ここにはただその大体の意味を、分かりやすく述べただけです が、実際は、むつかしい漢文で書かれており、しかもその文句を調べてみると、それぞ れ支那の重要なる古典に拠り所があって、
 「詩経、書経、孝経、論語、春秋左氏伝、礼記、管子、孟子、老子、荀子、墨子、荘子 、淮南子、韓非子」
等から、更に、
 「史記、漢書、後漢書、文選」
等の書物を、十分に読みこなし、その字句を自分のものにしている学者でなければ、到 底之を作る事は出来ないと考えられます。しかもただ博くそれらの古典に通じている物 識と云うだけでは、あの憲法は出来ないので、ひろく外国の歴史、哲学、政治学、文学 に通じると同時に、我が国の歴史を本とし、日本の国体(国柄)、つまり日本と云う国 家の本質を一層純化し、その組織を一層明確にし、その国力を一層強化しようとする目 的の下に、古今内外の経験をまとめて、国の大方針を示すと云う事は、非常なる見識を 必要とするので、それは聖徳太子で無ければ、出来るわけはありますまい。
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