09 応神天皇
 
 仲哀天皇陣中でおかくれになった後、皇子御生誕になり、やがて即位せられて、応神 天皇とおなりになるのでありますが、その御成人まで十数年の間は御母后が摂政せられ ました。内外の重大な、いや重大どころでは無い至って困難な問題を、見事に解決して 行かれました御功績をほめたたえて、この母后を神功皇后と申し上げ、日本書紀では天 皇御歴代と同じように、一巻を立ててお扱い申し上げたのでありました。
 
 さて既に半島に出兵し、新羅を討ち、百済を救い、平壌までも進んで満州の勢力と雌 雄を決せられたのでありますから、国威は隆々とあがった事、云うまでもありませんが 、ひとり武力が充実し、武威が輝いていたばかりでなく、この戦いの結果として、朝鮮 半島及び支那大陸との交通が頻繁となり、海外からの移民も多くなり、同時に先方の文 化の輸入が盛んになり、それによって我が国の農工業は、急速に開発せられました。来 朝した韓人によって池が作られ、之を名づけて韓人の池と云った事、百済王より裁縫に 巧みである女性二人をたてまつり、これが後の来女(くめ)の衣縫の先祖となった事、 百済王より良馬二匹をたてまつり、阿直岐(あちき)と云う人、之を引いて来た事、裁 縫の名工を南支那に求め、四人の女性が来朝した事などが、日本書紀に見えています。
 
 重大なのは、この時、文字が伝わり、学問が入って来た事です。百済王から献上の馬 を引いて来た阿直岐は、古典を読む力をもっていたので、皇太子菟道稚郎子は、この人 を師として学ばれました。応神天皇から「汝以上の学者があるか」との御尋ねにあずか って、阿直岐は「王仁と云う者がござります、これはすぐれた学者でござります」とお 答え申し上げたので、使いを百済につかわして、王仁を招かれました。来たのを見ると 、いかにもすばらしい学者で、あらゆる書物に通じていたので、皇太子は之に就いて研 究せられました。前の阿直岐の子孫は、阿直岐の史、後の王仁の子孫は、書首と呼ばれ て、学問を伝え、記録を掌りました。
 
 皇太子菟道稚郎子が学問を研究せられた結果、やがて重大な事跡が二つ出てきます。 その一つは、高句麗から来た外交文書に、無礼な文字がつかわれているのを、太子が御 覧になって、使者を叱りつけて、その文書を破り棄てられた事。今一つは、菟道稚郎子 、学問もあり御聡明でありましたので、応神天皇は非常に御寵愛になり、兄を越えて太 子と定め、御位を譲られる御考えでありました。ところが父帝おかくれの後、菟道稚郎 子は御兄に御即位を勧められ、御自分は弟であるから、兄をさしおいて位に即くべきで は無いと主張せられました。御兄に御兄で、父帝の御意志は御弟にあったのだから、御 弟が後を継がれるのが良いと主張せられ、お互いに辞退せられて、皇位は三年の間、空 白でありました。その頃漁夫が鮮魚を天皇に献上したいと思って、御弟の宇治の御殿へ 持参しますと、「自分は天皇では無いのだ」と仰せられて、難波を指示せられました。 「それでは」と、御兄の難波の御殿へ持って行くと、「違う、宇治へ行け」と仰せられ る。往ったり還ったりしているうちに、魚は腐ってしまって、漁夫は泣いたとあります 。菟道稚郎子は、三年も経って、問題が解決しないのを歎かれ、「自分さえいなければ 」とお考えになって、自殺せられました。御兄は深く悲しまれましたが、仕方なく、遂 に天皇の御位に即かれました。仁徳天皇と申し上げるのが、この天皇であります。
 
 仁徳天皇の御代、都は難波、即ち今の大阪でありましたが、その御所は質素を極めて いました。ある時、天皇高台より四方を御覧になると、一向煙が立っていないので、百 姓は貧しいのだとお悟りになり、三年間、課役を免除せられました。その三年間、宮中 では非常な御倹約でありましたが、三年後にまた高台にお登りなると、あちらにも、こ ちらにも、煙が盛んに出ていました。天皇は皇后をかえりみて、「国は既に富を得た、 今は心配も無くなった」と仰せられました。
 
 高き屋に 登りて見れば 煙立つ
  民のかまどは にぎはひにけり
 
と云う有名な歌は、後の人が、仁徳天皇の御心を歌にあらわして、その御徳を讃えたも のでありますが、いかにも良く天皇の仁慈の御徳を表した歌であります。
 
 さても応神・仁徳両天皇の御代、武力は強く、文化は進み、そして御徳は高かったの でありますから、国家としての実力は、見事に充実しました。それをうかがう事の出来 るのは、両天皇の御陵であります。
 
 先ず応神天皇の御陵は、河内(大阪府古市)に在って、恵我藻伏岡陵、東西五町、南 北五町と記されてありますが、之を実測しますと、実に大きいのです。それは前方後円 と云って、前の部分は方形で、後部は円形ですが、
 全体の長さ   四一五メートル
 前の端の幅   三三〇メートル
 前方部の高さ   三五メートル
 後円部の径   二六七メートル
 後円部の高さ   三六メートル
となっています。
 
 次の仁徳天皇の御陵は、和泉(大阪府堺市)に在って、百舌鳥耳原中陵と呼ばれ、東 西八町、南北八町と記されていますが、実測してその大きいのに驚きます。
 全体の長さ   四七五メートル
 前方部端の幅  三〇〇メートル
 前方部の高さ   二七メートル
 後円部の径   二四五メートル
 後円部の高さ   三〇メートル
 
 次の履中天皇の御陵は、その南方に在って、百舌鳥耳原南陵と呼ばれ、東西五町、南 北五町とありますが、之を測りますと、
 全長      三六三メートル
 前端の幅    二三六メートル
 前方部の高さ   二三メートル
 後円部の径   二〇三メートル
 後円部の高さ   二五メートル
 
 之をその平面形の上で比べてみますと、仁徳天皇の御陵は、エジプト(Egypt)のギゼ (Giza)のピラミッド(Pyramid)よりも大きく、支那の秦の始皇の陵よりも大きく、つ まり世界一の大きいものだと云われています。それは応神天皇や仁徳天皇の御代に、い かに国威が輝き、国力が充実したか、またいかに国民が天皇の御徳に心服していたか、 つまり日本が国家としていかに健全に発達して来たかを語るものであります。
 
 仁徳天皇を始めとして、その後、数代の天皇の御事蹟は、支那の歴史「宋書」に出て きます。それによりますと、当時日本の天皇は、百済・・新羅・任那を始め、朝鮮半島に 分立していた諸国の保護者を以て自任し、且つ宋国から之を認められていた事が分かり ます。宋国と云うのは、秦・前漢・後漢・三国(蜀・魏・呉)・晋と、支那の王朝、た びたび交替したのが、やがて北方の異民族の侵入によって、いくつかの国の分立となり ます。それを五胡十六国と云います。それよにって北支那は大いに乱れますが、その中 を晋はともかくも南方一帯を保って東晋となり、東晋は宋となり、一方五胡十六国は北 魏に統一せられ、北の魏と、南の宋と対立して、いわゆる南北朝時代となります。その 宋と我が国との間に、外交関係があって、我が国の国際的地位が高まり、また文化の交 流があった事が、宋書によって知られるのです。
 
 先年肥後(熊本県)の玉名郡江田村の船山古墳から大刀が出てきました。その刀には 、銘が刻んでありました。銘は漢字で記され、所々文字が痛んで読めない所があります が、最初に天皇の御名を記してあるのが、非常に特色のある御名でありますから、反正 天皇の御事である事、疑いありません。反正天皇は、御歯が大きく、上と下とを等しく 、その整った形の美しさは、あだかも一続きの様でありましたので、御名を瑞歯別尊と 申されました。また御所に井戸があって、瑞井と云いました。その水を汲んで太子を御 洗い申し上げた時、「たぢひ」の花が井の中に落ちていました。よって太子の御名を飾 って「たぢひのみづはわけの尊」と申し上げたのでした。「たぢひ」と云うのは、「虎 杖(いたどり)」の事であります。ところが「蝮(まむし)」の事も「たぢひ」と云い ました。蝮と、虎杖とは、互いに連想されるものであったのです。そこで、反正天皇の 御名は、虎杖に関係しての「たぢひ」であったに拘わらず、文字を書いては、蝮と云う 字を使う事もありました。その蝮の字の変形や、歯の字が、船山古墳の大刀の銘に出て くるのです。これは、一方から云えば、日本書紀や古事記の伝えるところを、当時の遺 品実物によって立証するものです。同時に、九州の一角で古墳に埋められた大刀に、反 正天皇の御代と記されてある事は、当時皇威が津々浦々に輝いていた証拠となるもので しょう。すでに神武天皇の建国よりは五百年ばかり、崇神天皇の四道将軍の発遣よりは 二百年ばかり、そして日本武尊の西征東伐よりは百五十年ばかり、更に神功皇后の海外 遠征よりは、五、六十年を経て、朝廷の威厳は、九州にも輝きわたっていたに相違あり ません。
  next