07 日本武尊
 
 民族の統一と云い、国家の建設と云う。云えば簡単であり、容易である様であって、 実際は非常に困難な大事業でありますから、普通平凡の人に出来る事ではありません。 それをやりとげられたのでありますから、神武天皇始め御歴代天皇の御苦労は、非常な 事であったでしょう。すべて人は困難に出合い、努力してその困難に打ち克って行くと ころに、おのれの身体も鍛えられ、精神も磨かれて行くのです。神話によれば素戔嗚尊 は、初めはまことに粗暴で無作法な性格でありました。それが高天原から追放せられて 、根国へ下られた時、ひどい雨風に遭って、さんざん苦労をせられた事を、日本書紀に 「辛苦(たしなみ)つつ降りき」と書いてあります。即ち古い時代には、苦労する事を 「たしなむ」と云ったのです。その「たしなみ」つまり「苦労」によって素戔嗚尊の性 格は一変して、今度は尊い神におなりになり、後世厚い信仰をお受けになる様になった のです。
 
 神武天皇は、無論初めから御立派でおありになったでしょうが、十数年の非常な御辛 苦によって、益々それが磨かれて、一層尊くおなりになった事でありましょう。されば こそ、その御子孫、皇統長く栄え、その国家、二千年を経て隆盛であって、遥かに天壌 無窮の神勅にお答えしているのであります。
 
 その皇統連綿として今につづき、百二十四代に至っています事は、世界の歴史を見渡 すに、全く類無き事であります。イギリスの貴族ポンソンビー(Ponsonby)などは、之 に感激して、御歴代天皇の御名を、神武天皇より今上天皇に至るまで、百二十四代皆覚 えて、機嫌のよい時には、朗々と読み上げて、少しも誤らなかったと云う。イギリス人 でさえ、そうである。まして日本人の中には、前には全部覚えている人が、かなり沢山 ありました。
 
 神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務 、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体 、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古 と、かように続いて、三十三代推古天皇の御代まで来ると、記録も出来れば、遺物も豊 かにになって来るのです。それ以前は、記録も整いませんが、然し口伝や、外国の書物 によって推定する事の出来る重大な事跡が、段々あります。
 
 まず第十代崇神天皇の御代には、初め疫病が流行して死亡する者が多く、国内騒然と して落ち着かず、中には反乱を企てる者もありました。天皇は御信仰の非常に深い御方 で、これは神徳をけがすところがあった為ではないかとお考えになり、それまでは宮殿 の中に三種の神器を奉安して天照大神をお祭りになっておられましたのを、勿体ないと して、八咫鏡と天叢雲の剣とは、御殿から移して、倭の笠縫邑に奉安し、皇女豊鍬入姫 をして祭らしめられました。また国内の神社を整えて、お祭りが粗末にならない様にさ れました。そこで人々の心も落ち着き、流行病も治まりましたので、今度は建国の大業 を更に弘めようとして、将軍四人を任命し、
 
 大彦命を北陸に、
 武渟川別を東海に、
 吉備津彦を西道(山陽)に、
 丹波道主命を丹波(山陰)に、
遣わされました。四道将軍として名高いのは、この方々であります。かようにして政令 の及ぶ範囲も弘まり、皇威大いにあがりましたので、国民は御偉業を讃えて、御肇国天 皇と申し上げたとあります。
 
 次の垂仁天皇は、父帝の御精神をお承けになって、神を尊ばれ、皇女倭姫命をして、 豊鍬入姫命に代わって、天照大神に奉仕させられました。倭姫命は、神鏡を奉じて諸所 御巡歴になった結果、伊勢の五十鈴川の川上こそ、大神をお祭りするに最もふさわしい 聖地であるとして、此処に神宮をお建てになりました。これが即ち今の伊勢大神宮であ ります。
 
 またこの御代に、当麻蹶速と云う抜群の力持があって、鉄でも自由に曲げる事が出来 たので、大変それが自慢で、我と思わん者は出て来い、生命懸けで争ってみたい、と云 ってました。天皇之を聞召して、誰か相手になれる者は無いか、とお尋ねになります。 一人進み出て、出雲の国の野見宿禰と申します者、大力無双でございます、と申し上げ た。「それ呼べ」とあって、野見宿禰を呼び出し、当麻蹶速と試合をさせられました。 双方足をあげて蹴り合いましたが、蹶速は脇腹の骨を踏み折られて死んでしまいました 。
 
 その頃までは、殉死と云う風習がありました。これは主人が亡くなると、親しくその 人に仕えていた人々が、死後も仕えるように要求せられて、一所に生き埋めにせられる のであります。支那にも、西洋にも、ひろく行われていた事は、記録にも残れば、遺跡 からも分かるところです。その様な残酷な事はしてはならぬとお考えになった垂仁天皇 は、野見宿禰に命じて、土器で人や馬の形を造り、之をお墓の周囲に建てて殉死に代用 させられました。野見宿禰の子孫、代々之を掌り、土師の連と呼ばれました。
 
 次の景行天皇の御代には、九州に反乱があって、天皇の親征によって、一応は鎮まっ たものの、また反きましたので、第二皇子小碓尊に命じて、之を征伐させられました。 皇子は、年十六歳でした。勅命を受けて熊襲の国に赴き、様子を調べられると、反乱の 首魁は川上梟帥でした。それが今、親類仲間を集めて、大宴会を催している。そこへ皇 子は変装して少女の姿になり、女共の中にまじって給仕をされました。梟帥は、之が大 層気に入って、そばに引き寄せて、盃を与えたりしていましたが、そのうちに夜もふけ て人も散じ、川上梟帥も深く酔って動けない程でした。この時皇子は、かくし持ってい る刀を以て、之を刺し殺されましたが、梟帥は息の絶える前に、深く皇子の勇敢に感心 し、「今後は日本武尊と名乗り給え」と云って、亡くなりました。
 
 日本武尊は九州を平定して、お帰りの途中でも、方々の反乱を平らげて、大和へ凱旋 せられました。そのうちに、今度は東国が乱れましたので、勅命を受けて、征伐に向か われました。その際、先ず伊勢神宮へ参拝せられましたところ、使命頗る重大であると して、倭姫命は、天叢雲剣を授けられました。尊、駿河へ参られた時、賊にあざむかれ て、鹿狩の為に野の中に入られたところ、賊は火をつけて野を焼いたので、尊は危うく 焼き殺されそうになられました。そこで剣を抜いて周囲の草を薙ぎ払い、逆に火をつけ て賊を滅ぼされました。この神剣は、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治せられた時に、大蛇の 尾の中から現れ出た剣で、これまでは天叢雲剣と呼ばれていましたが、日本武尊が草を 薙ぎ払われてからは、草薙剣と云うようになったのです。
 
 さて尊は、相模から上総へ渡ろうとして、暴風雨にあい、船は危険に陥りました。そ の時、弟橘姫は、身代わりになって海の中へ飛び込み、危難を救われました。尊は東国 を平らげて、お帰りの途中、碓日の坂(群馬県碓氷峠)をお登りになった時、かえりみ て関東平野を望み、その、関東経略の犠牲となられた、美人弟橘姫をお偲びになって、
 
 吾妻はや!
 
と詠嘆せられたので、それより関東の事を「あづまの国」と呼ぶようになりました。そ れより甲斐の国に入り、酒折の宮にお休みになりました。その夜、燈火をつけて、晩餐 を召し上がります時に、歌を以ておつきの人にお尋ねになりました。
 
 新墾(にひはり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
 
 誰もお答え出来る者が無かった中に、燈火をつける役の人が、
 
 計(かがな)べて 夜には九の夜 日には十日を
 
とつけられましたので、尊は之をおほめになりました。
 
 やがて尾張までお帰りになり、尾張氏の女、宮簀姫の許に滞在して居られましたが、 近江の伊吹山に暴逆の神があるとお聞きになり、それを胎児しようとしてお出かけにな りました。その時、草薙剣をお持ちになれば良かったのに、そのあらたかな剣は、宮簀 姫の家に安置したままで、伊吹山へ登られました。山の神は、大蛇に化けて道を塞いで いる。尊は之を山の神その物とは御承知無く、山の神の使であろうと考えて、気楽に跨 いで行かれました。時に山の神は、雲を起こし雨を降らしました。山も谷も真っ暗にな って、方角の見当もつかなくなりました。その中を無理にお進みになって、漸くの事で 、濃霧の中から脱出せられましたが、まるで酒に酔ったようになり、朦朧たる御気分で したが、山の麓の泉の水をお飲みになると、目がさめた様に良くならりました。そこで その伊豆美保「居醒(いさめ)の泉」と名付ける事になりました。
 
 やがて伊勢の能褒野まで行かれましたが、そこで病気重態におなりになり、遂におか くれになりました。御父景行天皇は、深く御歎きになり、能褒野に陵を造って、厚く葬 られました。ところが日本武尊は、白鳥(しらとり)になって飛び出されました。人々 はその白鳥の後をつけて走り、白鳥が琴弾原(奈良県南葛城郡)で停まったので、そこ に陵を造りました。ところが白鳥は、そこからも飛び出して、河内の古市(大阪府南河 内郡)まで行って留まりましたので、そこにも陵が造られました。三つとも白鳥の陵と 云うのであります。
 
 以上が、日本武尊に関する、古事記や日本書紀の記載の概略ですが、いかにも面白い 話ではありませんか。あまりに面白いものだから、これは事実では無くて、作り話だろ うと云う人があります。十六歳の少年が、遠く九州まで出掛けて行き、女装して賊の巨 魁を刺されたと云う話も、今度は東国を平らげに行かれて、駿河の野で焼き討ちにあわ れ、草を薙ぎ、逆に火をつけて、賊を亡ぼされた話も、伊吹山で、大蛇の毒気にあわれ た話も、おかくれの後に、白鳥になって飛ばれた話も、まことに面白く、愉快でしょう 。恐らく長い口伝の中に、誇張は誇張を生み、附会(こじつけ)は附会を加えたところ があるでしょう。
 
 然し話の大筋は、事実であったでしょう。それは、こう云う事です。建国の大理想は 、神武天皇によって掲げられ、且つ、その第一歩を踏み出されたでしょう。そして第十 代崇神天皇は、更にそれを推し進めて、四道将軍を発遣せられたでしょう。然し王化に 浴しない地方は、まだまだ広かったでしょう。そこで九州、また東国の平定と云う事が 、頗る必要であって、然も重大な問題であったでしょう。景行天皇御自身も、また皇子 日本武尊も、即ち皇室が先頭に立って、辺地の開拓、紛乱の平定に、力を尽くされたに 違いありません。今その証拠を、二つ挙げましょう。
 
 その一つは、支那の古い歴史の書物である宋書、これは西暦四八七年、つまり今から 数えて千四百八十余年前に作られたものですが、その中に雄略天皇の外交文書が載って います。それには、「我が父祖は、身に甲冑を装い、山河の嶮を冒して四方に出兵し、 東の方五十五国を征し、西の方六十六国を服して、遂に全土を統一した」とあります。 即ち雄略天皇より数代前の皇室は、みずから武装し、みずから武器を執って、東西辺境 の平定に力を尽くされた事、明らかでしょう。御血統の上から云いますと、
 
 景行天皇 − 日本武尊 − 仲哀天皇 − 応神天皇 − 仁徳天皇 − 允恭天皇 − 雄略 天皇
 
となり、日本武尊は、雄略天皇の祖父様の曽祖父様に当たられます。その故にあの外交 文書には、日本武尊の目ざましい西征東伐が、その影をうつしているのだと思われ ます。
 
 今一つの証拠と云いますのは、凡そ日本国の重大なる危難に臨んでは、皇室みずから 先頭に立って之に当たられ、御自身の苦難は少しもお厭いにならないのが、前後一貫し た御態度であって、その目ざましい例をあげますと、たとえば聖徳太子、中大兄皇子、 後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇、皆そうでしょう。殊に後醍醐天皇の皇子が、大塔 宮護良親王も、尊良親王も、恒良親王も、宗良親王も、また懐良親王も、どなたもどな たも難局を担当して、決して二の足を踏まれなかったのであります。あとあとがその通 りであれば、前々もまた同様であったでしょう。御子孫の勇ましく雄々しくましました 事によって、その御先祖の潔くすぐれておわしました事を推察してよろしいのは、御血 統がまっすぐに続いているからです。
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