04 皇紀(下)
 
 我が国の歴史、古い時代の年立に、無理な所があるのは、その原因を探ってみるに、 外国から、間違った歴史の法則を採用したからです。支那には、古くから、歴史には、 必ずそのようにならねばならぬ法則があって、従ってその法則を飲み込めば、予言する 事が出来るのだと信ぜられていました。支那の歴史を書いた書物の中で、古くもあれば 、見事でもあるのは、司馬遷の作った史記です。史記は、古事記や日本書紀より、八百 年ばかり前に作られたものです。その史記を見ると、戦国の紛乱の後に、武力を以て之 を平定し、天下を統一した者は、秦の始皇で、その功績は石に刻まれて表彰せられ、そ の宮殿は一万人を収容し得るものを建てると云う得意さでしたが、何分にも武力で他を 圧倒しただけで、徳が無く、人望が無かった為に、何時反乱が起こるか知れないと云う 心配をもっていました。そこへある人が、予言書を手に入れて持って来ました。あけて 見ると、「秦を亡ぼすものは、胡である」と書いてあった。始皇は、この「胡」を、北 方の異民族を指すものと解釈し、蒙恬と云う将軍に、三十万の兵をつけて、北方の異民 族を討伐させると共に、その南下を防止する為に、万里の長城を築造させました。とこ ろが、それより四、五年後に、始皇が亡くなり、その子胡亥が後を継いで、皇帝の位に つき、威権を示そうとして、刑罰をきびしくするや、忽ち反乱が起こり、二世はわずか 三年で自殺し、秦は滅びてしまいました。即ち予言書に、「秦を亡ぼすものは、胡であ る」と記されてあったその「胡」は、北方民族では無くして、実は二世皇帝胡亥の事で あったと云うのです。
 
 秦が亡びて後、天下を統一して、大帝国を建設したものは、漢ですが、その漢が二百 年ばかり続いて後、一応滅亡したのを、再び建て直したのが、後漢の光武帝です。その 光武帝がまだ民間人であった時に、ある人が予言して、あなたによって漢の王朝は再興 せられる運命にあると云い、光武帝の奮起を促しました。この予言で的中したものです から、運命を予言する学問が盛んになりました。之を讖緯(しんい)の学と云います。 それは人生の出来事、必ず一定の法則によって支配せられているもので、決して偶然に 変化が起こるわけでは無い、その法則を理解し、変化の徴候をつかみ、前兆を判断すれ ば、前以て将来の事を予測し、正しく予言する事が出来る、とするものです。
 
 この学問は、後漢が亡びた後には、晋が之を禁じ、やがて隋も厳しく之を取締り、之 に関する書物を焼き、之を宣伝する者を厳罰に処した為に、次第に衰えましたが、その 衰える前に、すでに朝鮮に伝わり、それが更に海を越えて我が国に入って来ました。
 
 推古天皇の御代に、我が国の古代史が整理せられた事は、前にも述べました。その為 に、この天皇を推古天皇と申し上げるに至ったのです。その推古天皇の勅命により、聖 徳太子が古代史を研究し整理して、天皇記・国記などを作られた時、この事業に参加して 働いた人々には、朝鮮から帰化した学者が多かったに違いありません。漢の高祖の子孫 が、漢亡びて後、百済へ移り、王仁の代に我が国へ帰化して、西文氏の先祖となり、後 漢の霊帝の子孫も、阿知使主の代に我が国へ帰化して、東文氏の先祖となった事、前に も述べましたが、それらの子孫が、やがてこの歴史編纂に関与した事が考えられるでし ょう。そして我が国に残っている口伝が、物語は面白いものの、年月の分からないのに 困り、何とか年立をして之を整理しようとして、後漢の世に流行した讖緯の学を、ここ に応用するに至ったに違いありません。
 
 それでは讖緯の学から、どのような事が出てくるかと云いますと、
  (一)辛酉の年は、人生の大きな変わり目である事。
  (二)千二百六十年を単位として、歴史の時代は転換すること。
 
 (一)は辛酉の年と云うのは、六十年に一度あります。従って六十一年目に、大きな 変化が来る筈です。(二)の千二百六十年単位で、歴史の時代がうつりかわるのも、そ の変化する時は、(一)の辛酉の年で無ければならないでしょう。
 
 さてこの原則を立てておいて、今、推古天皇の御代をみると、聡明な聖徳太子によっ て、盛んに外国の文化が採り入れられ、政治、外交、学問、文物、すべて一新する事に なったので、人々は之を新しい時代の始まりと考えたであろう。そしてその新しい時代 が始まるのは、辛酉の年でなければならないから、推古天皇の九年辛酉の年、これが、 新時代の発端と思われたであろう。そうすれば、我が国の歴史は、ここに第一の時代を 終わって、第二の時代に入るのである。そこで過去をふりかえって見るに、第一時代の 始まる時は、神武天皇の建国の時で無ければならぬ。それは必ず辛酉の年であり、且つ 推古天皇の九年より、千二百六十年前で無ければならぬ。かように推理したであろう。 この推理に基づいて、日本書紀の年立が行われ、そして、
  (一)神武天皇の御即位は、皇紀元年辛酉の年。
  (二)推古天皇の八年庚申は、皇紀千二百六十年で、時代は大きな変わり目に達し 、
  (三)翌九年辛酉は、新しい時代の出発点となった。
として、整理せられたのでありましょう。
 
 当時、漢学者の間に信用せられた讖緯の学説から推理すれば、かように判断せられた ものの、実際の事実は、之と違っていたでしょう。どう違っていたかと云えば、神武天 皇の御代と、推古天皇の御代との間隔が、それほど長く無かったのです。長く無いもの を、長いとした為に、御歴代天皇の御寿命も、その御代に活躍した人物の命も、引き延 ばして長くして、兎も角も話が合うように、まとめねばならなくなったのです。
 
 それで我が国の歴史、古いところは、一向デタラメで、信用出来ないものか、と云う に、そうではありません。年の立て方は誤り、年代は延びすぎているものの、事実その ものには、讖緯の説も介入せず、手をふれていません。若し手を入れたとすれば、たと えば、神武天皇より推古天皇まで、三十三代であるものを、十数代ふやして、四十五、 六代とすれば、御寿命にも無理がなく、万事辻褄が合ったでしょう。それをしなかった ものだから、年立に無理が生じたのですから、口伝には殆ど手を入れず、わずかに御寿 命に影響で出た程度と思われます。
 
 次に、それでは一体どれほど年代が延びすぎたのか、と云いますと、支那大陸には、 たびたび国家が建設せられては亡び、亡びてはまた別の国家が作られ、そしてそれぞれ の歴史が書かれましたが、その中に宋書と云うのがあります。その宋書の中に、我が国 との交渉の記事があって、宋の武帝の永初二年(西暦四二一年)には、我が国では仁徳 天皇の御代であった事が分かります。仁徳天皇は、第十六代の天皇ですから、その前を 十五代遡れば、神武天皇の御代になります。一代は平均三十年と云うのが常識ですから 、三十年を十五倍にして四百五十年、西暦四百二十一年から四百五十年ばかり遡ったあ たりが、我が国の建国の時と考えられます。つまり皇紀は、事実より五、六百年延びて いるわけです。
 
 かように云いますと、皆さんは、皇紀を軽んじ、或いはまた之を改定したらよいでは 無いか、と思われるかも知れませんが、それは戸籍の間違いのようなもので、一度それ で通用してきたものは、後で直せば、いろいろの不都合も起こるでしょうし、又どう直 すべきか、それも分からないのです。それは皇紀だけではありません。世界各国各民族 、或いは各宗教に、いろいろの紀元が立てられていますが、そのどれを見ても、正確に 事実を実証し得るものは、殆どありますまい。今年昭和四十五年は、それらの紀元では 、次のようになります。
 
 インド教暦紀元      二〇二六年
 回教暦紀元        一三四九年
 フリーメーソン紀元    五九七〇年
 ユダヤ紀元        五七三〇年
 コンスタンチノープル紀元 七四七八年
 アレクサンドリア紀元   七四六二年
 マケドニア紀元      二二八一年
 スペイン紀元       二〇〇八年
 ペルシャ紀元       一三三九年
 キリスト紀元(西暦)   一九七〇年
 
 之を見て、とう思いますか。最後のキリスト紀元の外は、歴史的事実としては、先ず 信用がむつかしいと思われるでしょう。ところがそのキリスト紀元すら、事実とは違う のです。即ちそれはキリストの誕生を、紀元元年とする立て前ですが、実はその計算に 誤りがあって、キリストの生まれたのは、紀元元年では無いのです。それでは、キリス トの生まれたのは何年かと云えば、困った事には、学者によって説が区々で、紀元前二 年と云い、四年と云い、五年と云い、六年と云い、七年と云い、之を一定する事は出来 ないのです。二千年、三千年も前となれば、どの国にしても正確に年月を押さえる事の むつかしいのは、この通りで、我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍 しい事では無く、且つまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任で は無いのです。即ち我が国の紀元、つまり今年を皇紀二千六百三十年と云うのに、あと から調べてみると、五百年ばかりの間違いが出ましたけれども、そのような間違いが出 るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しい事で、少しも心配する必要は無 いのです。
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