03 皇紀(上)
 
 神武天皇の国家建設が、実に重要な、そして偉大な御事業であったに拘わらず、正確 に、また詳細に、分からないところがありますのは、その当時の記録が無いからです。 何故その当時の記録が無いのか、と云えば、不幸にしてその頃の我が国には、文字が無 かったからです。日本人の中に、文字を発明する者が無く、また外国から、文字を輸入 する事も無かったからです。
 
 支那には、文字が、古い時代に発明せられ、書物が古くから作られていました。それ が朝鮮に伝わり、朝鮮から我が国へ入ってきたのは、応神天皇の御代であったと伝えら れています。即ち応神天皇の十五年には阿直岐、十六年には王仁、二十年には阿知使主 等が帰化して学問を伝えました。王仁は、漢の高祖の子孫で、西文氏の先祖となり、阿 知氏主は後漢の霊帝の子孫で、東文氏の先祖となり、学問を以て、朝廷にお仕えしまし たので、それからは記録が出来たでしょうが、それまではただ言葉で云い伝えてきただ けです。口伝だけとなれば、今日から考えると、非常に頼り無い気がしましますが、そ れは記録が発達し、文字に頼る事になった為に、却って記憶力が衰えたからで、文字に 頼らない人は、今でも記憶力が非常に強く、むつかしい事をよく覚えているのに驚く事 があります。殊に太古には、語部と云うものがあって、物語を諳誦して伝える事を本務 とし、専門としていましたから、たとえ文字が無いにしても出来事の大筋は、云い伝え られてきたでしょう。それが応神天皇の御代から、段々文字に写されて、記録が出来て きたでしょう。それを整理して、我が国の歴史をまとめようとしたのは、推古天皇の二 十八年に、聖徳太子が、天皇記・国記その他の歴史をお作りになったのが、最初でした。 その天皇記や国記等は、皇極天皇の御代に、蘇我氏の滅びた時、蘇我氏の為に焼かれま したが、一部分だけは、火の中より取り出されて、朝廷へ戻りました。然し何分にも、 それは不完全であったし、また諸家に伝わった記録には、色々誤があったので、第四十 代天武天皇は、これ等を整理し、昔からの口伝を秩序立てて、之を稗田阿礼に記憶せし められました。稗田阿礼は、勅命を受けた時に、年は二十八、生まれつき聡明で、一度 見聞した事は、二度と忘れぬ人でした。然しこの人の寿命にも限りがあるので、第四十 三代元明天皇は、漢字漢文の教養の深い太安万呂に命じて、稗田阿礼の諳誦する所を、 文字に記録させられました。数箇月かかって、和銅五年(西暦七一二年)正月、それが 完成して献上せられました。これが有名な古事記で、上中下の三巻に分かれています。

 古事記は古い口伝を本にしたものですが、これとは別に、聖徳太子以来の歴史家の努 力があって、外国の歴史を参考にし、諸家の記録を整理し、之によって口伝に欠けてい た年月を補い、我が国の歴史を大成する計画が進められていました。それが第四十四代 元正天皇の養老四年(西暦七二〇年)五月に出来上がって、総裁舎人親王より献上せら れました。日本書紀がそれであります。内容も詳しくなって、全部で三十巻あります。 これは正史として、非常に重んぜられました。その後、その続編がつぎつぎに作られ、 続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録とつづき、日本書紀と合わせて 、六国史と呼ばれるようになりました。
 
 かように我が国の歴史を書いた書物の、一番古いのは古事記であり、そりについで古 いのは日本書紀ですが、古事記は第四十三代元明天皇の御代に作られ、日本書紀は第四 十四代元正天皇の御代に完成したのですから、神武天皇との間に、天皇の御代にして四 十数代のへだたりがあり、年月にして一千年前後の間隔があるとしなければなりません 。もっとも応神天皇の御代頃から、漢字を以て記録する事が、段々始まったとし、それ が古事記や日本書紀の材料になったとしても、その応神天皇は、第十五代の天皇ですか ら、神武天皇との間に、十数代のへだたりがあります。その十数代の間は、記録が無く て、専ら口伝によったとしなければなりませんから、建国当時の事、人によって、伝え がまちまちであるのは、仕方の無い所でしょう。そこで神武天皇の御東征も、安芸(広 島県)に七年、吉備(岡山県)に八年、御滞留になったと、古事記は伝えているのに、 日本書紀では、前者を七十日ばかりとし、後者を三年とし、非常な相違が出てくるので す。然し細かい点には、そのような違いがあっても、道順は同じであり、話の大筋は変 わっていませんから、大体は前に述べたような事であったとしてよいでしょう。
 
 ただ一つ困る事があります。それは古事記には、御代々の天皇の御名と、その御代の 出来事が書いてありますが、それが何時の事で、そして次の記事との間に、幾年のへだ たりがあるのか、が書いてありません。つまり古事記は、物語としては、まことに面白 いが、年表を書いて、年月順に整理しようとすると、それは出来ない仕組みになってい るのです。之にひきかえ日本書紀の方は、年月を明記してあって、時の流れと、出来事 とが、ハッキリ分かるようになっています。殊に神武天皇の御即位を、辛酉の年、春正 月朔日と明記し、それを基準にして、二年、三年と数える事にしてあるので、その御即 位の年を、我が国の紀元元年とし、之によって数えるのを、皇紀と云うのです。その皇 紀では、今年昭和四十五年は、二千六百三十年となっています。
 
 ところが、この日本書紀の年立に、困る事には、無理があるのです。それは古い時代 に、長寿の人が多い事です。長寿と云っても、八十、九十ならば、信用出来ますが、百 数十歳、或いは二百数十歳で活動するとなれば、これは疑わしいとしなげばなりません 。そのような無理は、年立を殆ど気にかけていない古事記にも現れていますから、古事 記や日本書紀の作られた時より、かなり前に、年立の混乱があって、それが影響したよ うです。人によっては、古事記や日本書紀を尊ぶのあまり、その記事を鵜呑みに呑み込 んで信用しようとする人もありますが、それは贔屓のひき倒しで、無理でしょう。たと えば、神武天皇の御年、古事記には百三十七歳、日本書紀には百二十七歳とあり、第十 代崇神天皇の御年、古事記は百六十八歳、日本書紀は百二十歳と記しているのです。殊 に甚だしいのは、第十四代仲哀天皇は、日本武尊の御子でありますが、日本書紀の記事 を、そのまま見てゆくと、日本武尊のお崩れになってより、三十六年後にお誕生になっ た勘定になるのです。何としても、これはあり得ない事ですから、日本書紀の年立には 、大きな無理があり、そしてそれが古事記にも影響を与えてとる所から判断して、この 二つの書物の書きおろされるよりは、ズッと前に、年立の混乱、或いは無理な年立が行 われたに相違ありません。
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