02 神武天皇
 
 さてそこで、「日本」と云う国家を建設し、日本民族の中心となって、その団結を固 め、その理想をかかげて、その方向を決定した英雄は、一体誰であったか、と云う問題 になります。それは神武天皇であります。神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁 遠いお方のように感じるかも知れません。ところが事実は、全く反対なのです。
 
 皆さん、皆さんの姓名を考えて下さい。姓と名とを分けて、姓だけを、苗字と云いま す。皆さんの苗字は、何と云いますか。山田ですか。木田ですか。小島ですか。村上、 夏目、手塚、飯沼、依田、多田、小國、山縣、清水、田尻、浅野、土岐、船木、石川、 この中のどれかでありませんか。佐竹、武田、小笠原、秋山、南部、里見、新田、大館 、今川、畠山、細川、この中にありませんか。是等は源氏ですよ。然も清和源氏と云っ て、清和天皇から出ているのです。そしてその清和天皇は、神武天皇の御血統を受けつ がれたお方であり、神武天皇を第一代として、第五十六代の天皇でおありになるのです から、上にあげた苗字の人々は、近くは清和天皇、遠くは神武天皇を御先祖としている のです。
 
 「僕の家の苗字は、違うんだ」と云うのですか。それで、何と云いますか。村岡です か。三浦ですか。畠山ですか。相馬、梶原、北條、名越、金澤、伊勢、杉原、和田、千 葉、この中のどれですか。これ等は桓武平氏と云って、元は桓武天皇から出ているので す。そしてその桓武天皇は、神武天皇の直系、第五十代に当たられます。
 
 またこれ等とは別に、近藤とか、進藤とか、武藤とか、尾藤とか、呼ばれる家があり ます。佐藤や、加藤、後藤、齋藤になると、一層多いでしょう。それらの家は、林や、 冨樫、竹田、河合、稲津、結城、松田、佐野、波多野などと同じく、先祖をさかのぼる 時は、左大臣藤原魚名から出ています。魚名は今より千二百年ばかり前の人ですが、魚 名の祖父は不比等、不比等の父は大織冠藤原鎌足、その鎌足が天智天皇の重臣であった 事は云うまでもなく、もっとさかのぼれば、太古から皇室の重臣であって、神武天皇に お仕えした天種子命から出ているのです。して見れば、齋藤も加藤も、佐藤も後藤も、 その外、上にあげた家々は、神武天皇の重臣として、建国の大業のお助けした英傑の子 孫である事、明らかでしょう。
 
 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う学者が、神武天皇の 御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て 悲しみ、泣きながら詩を作りました。
 
 遺陵、わづかに路人に問ひて求む、
 半死の孤松、半畝の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
 ・・・・・・・・
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の処に一たび頭をめぐらす、
 
 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何処にあるの か、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来 たが、来て見ると、小さい丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神 武天皇が日本民族を統一し指導し、そして『日本』と云う国家を建設して下さらなかっ たならば、日本民族はいつまでもバラバラに分散して、低級な生活から脱出する事が出 来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりで は無い、我々は皆神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、 二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人 と云う多数にのぼっている。即ち神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖である のに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは、何と悲しい事では無いか」と云うの です。
 
 この栗山と云う学者は、讃岐(香川県)から出て幕府に用いられ、学問教育を立て直 した、すぐれた人物ですが、神武天皇に対しましての感激も、流石に見事であります。 「百代の本枝、かず億ならず」と詠まれたのを、逆に説明してみると、皆さんには、父 と母と、親が二人ありましょう、その父にも親が二人、母にも親が二人ありますから、 あなたの祖父、祖母は四人でしょう。その一代前になれば八人でしょう、その又一代前 に遡れば十六人でしょう、も一つ前は三十二人、その前六十四人、一代平均三十年とし て、あなたから二百年ばかり前には、あなたの先祖は六十四人ばかりになるでしょう、 二百年でそれですから、二千年さかのぼる時は、大変な数に上る事が分かりましょう。 然もそれはあなた一人でなく、お友達の誰も彼も皆同様なのです。して見れば日本民族 、この島国に居住して幾千年、いつの間にか皆親類になり、親戚になっていて、いわゆ る血が続いている間柄だと分かりましょう。そしてその大きな血族団体の中心、いわば 本家が皇室であり、その皇室の御先祖として、国家建設の大業を成しとげられたのが第 一代神武天皇でおいでになるのです。その神武天皇の御恩を忘れ、御陵をかえりみる者 も無いのを歎いたのですから、栗山は正しい知識と、素直なる感情をもっていたと云わ ねばなりません。
 
 それでは神武天皇何処においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向 (宮崎県)においでになりましたが、日本国中、いくつにも分かれて相争っているのを 御覧になり、之を統一して立派な国家としなければならぬと御決心になり、兵をひきい て船出し給い、宇佐(大分県)、岡田の宮(福岡県)、タケリの宮(又はエの宮、広島 県)、高島の宮(岡山県)等を経て浪速(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大 和(奈良県)へ入ろうとされた時に、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の御兄五瀬命は重 傷を負われました。そこで天皇は、「我は日の神の子孫でありながら、日に向かって戦 ったから、天罰を蒙ったものに違いない、神をうやまい、日の神の御光を脊に負うて戦 うならば、必ず敵を亡ぼす事が出来るであろう」とお考えになり、方向をかえて大阪湾 を南へ下り、紀伊(和歌山県)へお入りになった。重傷の五瀬命は、ここでおかくれに なったので、竃山に葬られた。天皇は進んで熊野へお入りになったが、山嶮しくて行く べき道なく、困り切っておられたところ、夢のお告げがあって、天照大神より八咫烏を 案内者としてつかわされた。後の大伴氏の先祖である日臣命が兵をひきいて八咫烏のあ とについて進み、宇陀(奈良県)へ入った。天皇宇陀の高倉山のいただきにお登りにな って、四方の状況を御覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟帥が居って、天皇 に抵抗している。国見岳の上にも居れば、磯城にも居る。葛城には赤銅の八十梟帥が居 る。「八十(やそ)」と云うのは、「数多くの」の意味、「梟帥(たける)」は「勇敢 なる人」の事ですから、何処にも彼処にも、勇敢な人が沢山居って、それが皆互いに争 っており、そして今、天皇に抵抗したのでしょう。天皇は次第に之を平定して進まれ、 最後に長髄彦と対戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事が出来ず、 官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色 の不思議な鴟(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持っておられた弓の弭(弓の先端) にとまりました。その鴟の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う 事が出来なくなった。長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命が来ておられ ましたが、長髄彦の頑迷であって、どうても教化に応じないのを見て、之を殺して帰順 せられました。これが後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以て国の守護を担当した のです。
 
 やがて方々の八十梟帥、皆平定したので、天皇は橿原宮において御即位式をあげられ ました。古くはその御徳を讃えて、「畝傍の橿原に、底磐根に宮柱太しき立て、高天原 に千木高知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げ る事になったのです。
 
 話は簡単に、いわば一瀉千里で進みましたが、これは大変な大事業であって、容易な 苦難では無かったに相違ありません。日本書紀によれば、日向を御出発になってより、 大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで十五年 、従って全体では、十七、八年かかった事になります。国家建設と云う事は、このよう に重大な、そして苦難の多い大業です。近い例を、アメリカ合衆国にとれば、その独立 宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦難に陥 り、それを踏み越え踏み越えて、遂に独立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間 八年かかっています。また支那大陸に建設せられた国家、昔から数多くある中で、最も 強力であって、且つ永続したものは漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦と云いまし た。その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまで足掛け四年かかり、秦が滅びても項羽と 云う競争者が出てきたので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年 の間、非常な苦労をして、遂に皇帝の位につき、漢と云う国家をつくりあげたのでした 。殊に項羽と云う人は、「力、山を抜き、気、世を蓋ふ」と、自分で自任していたほど の英雄でしたから、この人との戦いは、容易な事では無かったに違いありません。今、 神武天皇が、到る処に割拠している八十梟帥を、或いは討ち滅ぼし、或いは心腹させて 、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向かって一途に進み、いか なる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之 に感激して、御諡を神武天皇と申し上げる事になったのです。
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