鹿角一葉松
「人は支え合って生きるのか」
 
△はじめに(未定稿)
 私の自宅の前に、通りに面して物置(兼陶芸のための自習室)があり、その建物の出 窓を陳列窓(ショー・ウインドー)様にしている。
 「人は支え合って生きる」と書いてあるボンボリも飾ってある。

 国内各地をいろいろと転居していると、友人知人の顔触れが、何時とはなしに、増え てくる。しかし、段々と増えてくると、それらの方々に、一々関わり合いを続けること は、時間的にも、家計的にも不可能になってしまう。そこで、生きる知恵として、これ また何時とはなしに、人との付き合い方を浅くしなければ、思うようになる。
 換言すれば、人付き合いが鬱陶しくなると云うか、懐疑的になってしまうことでもあ る。
 
 そんな中で、例えば、寄付とか、署名とかを求められることがある。
 それら寄付などの
@目的とか(私の人生観とは、いくらか乖離しているようである……)、
A使われ方とか(所期の目的のために、善意に、合理的に用いられているのか……)、
また、
Bそれらに従事している人は、何の目的又は理由、若しくは生きがいがあって、そんな ことを第三者たる− 私 − に求めなければならないのか……、その人は何者なのか、寄 付を扱う団体と関係は……?
などの疑問(この三点をとりあえず「懐疑項目」と云う。)が何時も付きまとう。
 
△ある日ある時
(1) 自宅に居たとき、呼鈴が鳴ったので玄関に出たら、既に生徒らしき男子が玄関の戸 を開けて中に入ってきていた。外には大人らしい人影があったような気がする。
 そこで感じた。
@初対面の人が、断り無しに玄関の戸を開けて中に入ってもよいのか?
A我が家の構造上、玄関からの光が逆光となって、侵入者の容姿がはっきり見えないこ とがある。
 したがって、その生徒が何者なのか……、寄付を扱う中央の団体との関係は?
 そんなこと − 懐疑項目 − が脳裏をよぎって、無碍に寄付をお断りしたことがある。
 その寄付とは、外国の恵まれない人達への援助らしきことに用いられるとのことらし かった。
 
(2) 花輪の市日のあるとき、ある建物の入口付近に佇んでいたら、中年の男性に、無言 で署名の用紙と、筆記具を差し延べられた。署名者欄はまだ空白であった。
 あまりの突然のことで、一瞬身構えてしまった。懐疑項目が脳裏に浮かんだ。
 署名をしないまま、その用紙を返した。
 老眼鏡を持ち合わせていなかったので、よく読めなかったが、ある大病院に精神関係 の治療をして欲しい?、と云う請願の署名らしかった(私は鹿角に定住して間もないの で、鹿角の医療事情についてはよくわからない)。
 ……

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