GLN 鹿角観光イベント&交流居住:花輪まちづかいサポーター

まち歩きツアー

参考(出典):花輪まちづかいサポーター資料

△桜山神社の創建
 社寺の新規創建については、江戸幕府の禁止政策を明治政府もうけつぎ、特に許可 されたものに限って創建を認めていた。鹿角における神社創建の例は、花輪の北館に 建立された桜山神社(櫻山護國神社)である。
 
 桜山神社の本社は盛岡にあり、南部家の始祖・南部三郎光行(源姓主大明神)と 中興の祖・南部大膳大夫之信直(信徳大明神)を祭神としている (初め三戸城内に鎮座、淡路丸神社と称し、後に盛岡城内に移転し、信直公を合祀、 櫻山神社と改称)。その分祀に至る 経緯は、二三年に戊辰戦争における二三回忌に当る法要が行われた席上、招魂碑 (しょうこんひ)の建設が発議されたことに始まる(小田島由義『遺烈余芳』・ 『鹿角市史資料編第一集』所収・以下同)。この招魂碑建設の準備が進むうち、 二七年の戊辰戦死者二七回忌吊祭に有志者が長年寺にて会合した際、南部康保・ 小田島由義・村山義和・吉田清兵衛・大里寿の五名が主唱者となり、改めて桜山神社の 分社建立についての提案がなされた。その目的は、鹿角郡が旧盛岡藩であった記念物を 残して子孫に崇敬の念をおこさしめ、かつ旧恩を忘却しないようにする。また君恩に 対して身を捧げ戦死した者の霊魂を慰むるにある。その具体化として、南部家の宗廟 である岩手県社桜山神社の分社を当地に建設し、その境内に記念碑を建立して、 神社の祭典と共に毎年戦死者の慰霊祭を行うことという計画で、多くの賛同する ところとなった。
 
 旧藩主および桜山神社から分社の許可を得たのち、ようやく三〇年三月に秋田県の 認可も出て、社殿の起工がなされた。同年五月二九日に鎮座際、翌三〇日に招魂碑 前において招魂祭が盛大に執り行われている。これらの費用総額一、四三七円余は、 花輪町を中心とした寄附金によって賄われた。また桜山神社の維持のために報恩講 (ほうおんこう)が組織され、その信徒数は一、三一五名にのぼった。

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