参考(出典):花輪まちづかいサポーター資料
△万三山稲荷神社(万山林稲荷神社)
祭神:豊受姫命
六日町の万山林稲荷社の鎮座まします万山林とは、酒屋の杜氏だった万三郎
という人が植林した林なので、万三郎林からとった名称だそうである。
旧四月十九日はこの宮の宵宮で賑々しく上み下もの町内境と神社の大鳥居前に
街幅一杯の大きさの燈籠で桟敷の上に掲げ、両面の絵は誰やらの名筆になった歴史画
が多いので、参詣客を喜ばした。照明燈のない時代には、この夜ばかりは
六日町を不夜城化したものだった。
稲荷社の大鳥居から社頭までの坂道の要所要所には子供たちが、小さい御堂に
燈明を捧げて居ならび、「お参りっこして下さい」とお賽銭をねだる珍風景も
あったが、今はなくなった。
明治三十五年頃まで、この鎮守さんには下記の財産があった。
一、町内林 一町五反
二、籾三十七駄
三、貯金 五千円
四、斗代 八駄
こんな財産は他町内にはないことで、関村氏(村六さん)の寄付にあるようである
が明瞭ではない。(宮城一杉著 花輪町史より)
万山林へ動座する御神体一箱は、舟場の村田公宅にある。その由来は知らない。
五月十九日に運んでいる。
六日町にある万山林の御神体は、村六さんから治右衛門家(小田島)へ渡された
というが、その由来はわからない。ずっと家でお祭りしてきたいる。
家では万山さん、産土さんの日ということで毎月十九日、二十日、神様に、
ゆで玉子、油揚、小豆御飯、お酒をあげ拝んでいる。(村田公)
五月十九日は御神体三箱(厨子に入っている)前に、海の幸、山の幸、里の幸、
酒、米、お供え二段(三方に乗らない位いの大きさに作り二十日に町内全戸に
切餅にして分ける)を供え、別当さんが祝詞をあげ、お祓いをする。
夕方六時頃、万山林へ動座、動座には子供たちを含めて、十五、六人白紙を口に
くわえて、三方に乗せて万山林へ、そこであらためて別当さんが祝詞をあげ、お祓い
をする。
二十日、万山林から還御するときは、今は子供たちがいないので、自動車を使って
帰る。(小田島マサ子)
六日町の産土神として万山稲荷を拝んでいる。
由来は六日町の財産家であった通称「村六さん」が自分の内神さんであった財産を
みんなで拝んでもらうように、分けてくれたものだと聞いている。
それに六日町に基金があったので、それで応援して祭りを運営してきている。
十九日の宵祭には、恩徳寺角、町境、町の中心部、舟場からのつき当り、万山さんの
鳥居の四ケ所に燈籠を作って飾った。武者なとを描いた立派なものだった。
各家々では、半紙判ぐらいの小さな燈籠を作り柱とか門に飾った。大きな家では
二つも、三つも飾った。
万山神社の入口には駄菓子やの出店がたくさん出た。燈籠の枝を見ながら、商売繁昌
や家内安全を祈ってたくさんの参拝客があったものだ。
本祭りの日には、赤飯・草餅(よごみもち)・笹餅を作って近くの親類にも回して
○○と酒飲みをした。子どもの役目は餅をくばって歩くことであった。
御神体は町内の大人の家にあずけられていた。今は小田島治右衛(邦夫)さんの
家で預かるようになった。その御神体を宵祭りに行列を作って神社にお連れして祭日の
日に拝んでもらって祭りが終ると、その日のうちに大人の家にお帰した。
由来としては、奈良肉屋に使われた万三郎という人が、信仰した稲荷さんを
引き続いてお祭りして来たといっている。(六日町・武藤ミツ)
大きな燈籠すな、向こうの小路から、こっちの小路までかかるような、四角なものすな。
七夕の王手に書くような武者絵、あの頃、電気ないんだから、ローソク中さつけて、オラエの前と、神明さんの所と、舟場さ行く角と、万山林に行く鳥居の所と飾ったもんだ
さい。向いの小店屋根と、オラエの小店屋根と通りいっぱい。
あすこら辺の新田町、舟場の人方も来るもんだっけす。十八日の晩げ、五重もって
酒っこ持って、おこもりするんだす。十八日の晩げから十九日の朝まで。
戦争前、公園にするって万山林の後ろに桜植えて、たいした良くなったども、
戦争中みんな切って、豆など植えて食料増産やったのす。
昔は関善・酒屋、藤右衛などで順番に神様おがんでったども、今酒屋に万山林の
神様おんでるすもの。
神様、移すときは、大したものであった。ワシャド頼んで声を出さないように、白い
紙くわえて行列作って神様の道具を運んだ。オレさ、酒屋のを見たことがある。
小学校のとき、その時は、菅原、細谷、杉江さん方がきていて、オレ見たときは、みんな大人たちであった。帰ってくる。お戻りになるときは酒屋では酒を用意して
若い人に飲ませていた。(大越セツ)
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