GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 ということでコンニャクの神さまのことだが、なんといっても日本人は神さまが好きだ。 といっても八百万の神々ともなれば拝みきれない。 それは冗談としても、神さまを拝む心の大事なことは、ご利益をお願いするより先に まず有難うございますという感謝の心ではないだろうか。 世の中にはいろんな宗教があり、いろんな考えを持つ人もいる。 それはそれでいゝとして、只、今の人に欠けているのは、自分のことは棚に上げて、 エラそうなことをいうわけではないが、有難うございますという感謝の心ではないだろうか。 今、どこの保育園(幼稚園)や小学校、中学校に行っても、いたゞきます、 有難うございます、ということは教えていると思うが、 世の中の若者達の強悪残忍な犯罪などみていると、 その人達はもしかして言葉としておぼえているだけであって、 その心は育っていないのではないだろうか。 中学校を卒業すると、いたゞきますも、有難うございますも卒業してしまって。
 
 今、テレビの番組などでは、さすがに食べ物を遊び道具にして 投げつけたりして遊ぶ番組はなくなったが、それでもタレントとか称する若い人達が大食いの 競争したりしてさわいでいろのを見ていると、つい昔を思い出す…… 泥水すゝり草をかみ……兵隊さんよ有難う……そんな生やさしいものじゃないんだ。 そのすゝる泥水も、かむ草もない苛酷な状況の中で、 どれだけ多くの兵隊が無謀な作戦の犠牲になって死んでいったことか、 力つきて倒れても、誰もおこしてくれる者もない。 おこしてやる力がないんだ、自分も歩くのがやっとだ。 ましてや埋めてくれる人も骨を拾ってくれる人もいない。 異国の山野に野ざらしのまゝ望郷の思いだけを胸に抱いて、むなしく朽ちていった。 “鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)“、そんな言葉を思い出す。
 
 私もシベリアで赤痢になった子とがあった。 七番目だったか、次から次と二百人くらいになったろうか。 私たちの寝ている反対の奥の方で十七、八の若い人だろう、オカーチャン、ウチへ帰りたい!と 母の名を呼んで泣いている。彼もお国のために頑張らにゃならんと志願してきたのかもしれない。 やっと鉄ぽうかつぐようをおぼえたら終戦、シベリア行きとなったのかもしれない。 私達としても、どうしてやることもできない。 隣り同志で、どこの誰だか知らないが、あれはもう駄目だナ、死ぬナ、とヒソヒソ話し合ったが、 次の朝になると声がしない。次第に冷たくなってゆく若い友達の手を握って、 頑張れと励ましていたであろう隣りに寝ていた人も、どんなにかつらかったろうか。 彼は死ぬことによって、より故郷に帰れなかった。 シベリアの凍った土の中に埋められたろう。 冬のことだった。私は多くの仲間に助けられて、なんとか帰ってくることができたが。
 
 コンニャクの神さまの話しが変な方にそれてしまったが、 コンニャクの神さまもあるという。それはコンニャク粉を発明した中島藤右衛門を祀っているという。 一つは福島県矢祭町にある蒟蒻神社(昭和四十三年建立)、 一つは茨城県大子町にある蒟蒻神社(昭和五十六年建立)だという。 なんでコンニャク粉が発明されてから二百年もたってから、 と思ったが藤右衛門さんの有難みがわかるまで時間がかかったのか、コンニャク粉は、 今は国産より殆んど中国からの輸入だとかいう。 となればその作り方は、日本から行ったのか。
 
「なんこ」の神さまではないが、馬の神さまは昔から蒼前様とかいろいろあったろうと思うが、 三ツ矢沢の方には駒形神社というものがあった。今は馬を飼う人も殆んどいなくなったから、 拝む人もなく、自然とつぶれていっているだろう。

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