GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 先にもいったように、私は閉山まで毎日よろけ坂を上って働きに行ったので、閉山後も自分の家、 自分のヤマのような気分が抜けず、思い立ってはノコノコと出かけて行くわけですが、 一昨年(平成二十年)第一回の植樹祭をやったとき、マインランド(現史跡尾去沢鉱山) の阿部督樹さんが自分の家のまわりに植えているさつきやつゝじなどをくれるというので、 マインランドの人達がもらいに行くのに、谷内までついて行った。二回目の帰り、 これもマインランドの佐藤一栄さん(尾去)が自分の家のもやるというので、 大きいのを五・六本もらってきた。 植樹祭のときに残った分は、来年用としてレストハウスの後ろの方に仮り植えした。 昨年の秋第二回の植樹祭のときにそれ等も掘り起こして植えた。 その中に紫シキブが一株あった。 私はコレコレとアジサイやつゝじを植えた山際の真中あたりに植えてもらった。 私はこれを株分けしながら、この山際をふちどるようにずーっと植えたいと思っている。 が土壌の関係もあるだろうし、うまくつくかナーと春になるのを待っている。 山神さんの境内にも、小鳥が植えてくれたのが二・三本大分大きくなっている。 よく見れば小さいのがもっとあると思う。 山神さんにもふやしたいが、よくつくようだったら、それも分けていってだんだんふやしたいと思っている。 そして更にこの山際の反対の方の土手(中沢ダムの上の方)にも植えていきたい。 誰かの文句をかりるわけではないが「青垣山には紫シキブがよく似合う」 ということで、邪魔にならないはじっこの方に石の碑とまではいかなくても、 ベニヤ板一枚でもいゝから尾去沢鉱山と青垣山は切りはなせない、 一体なんだ(いゝかえれば鹿角ということにもなるが)というような一文をそえて、 啄木の「鹿角の国を憶う歌」書いて建てたい。
 
 こんなことをいったら、お前はいつまで生きるつもりだ、と笑われると思うが、 でも私はそれでいゝんだと思っている。 木を植えるということは、三十年先、五十年先、孫の時代のために植える、とよくいわれるから。 里山自然の会の人達もきっと同じ思いだろうと思っている。  今、鉱山に行ってみると、去年、一昨年と植えたつゝじやさつきが雪に押しつぶされたり折れたりと 可愛そうな姿をしている。これを見た人は無駄骨だ、止めた方がいゝと嗤うかもしれないが、 私は後二十年たてばと思っている。 山神さんの斜面に植えたつゝじなども、割箸のような小さな苗木だったが、およそ二十年たった今、 小さいながらもそれなりの花が見られるようになった。
 
 尾去沢の山々は、わずか五百米前後の山の連なりだ。 五十枚に登るといっても、鉱山事務所(史跡尾去沢鉱山)より標高差でいえば二百米らいだ。 何千米という高い山にくらべれば、その眺めは雄大というには遠いかもしれないが、 それなりの広がりがあり、展望が開ける。子供達も歩けるやさしい道だ。
 かつて藩営時代、尾去沢の三沢(さんさわ)といわれ、稼行の中心として栄えた田郡、元山、赤沢など、 いわゆる尾去沢鉱山の歴史を跡をたどる古い道の刈払い保存の作業なども進められている。 私は、山に上るとなれば五米行っては一休み、十米行っては一休みとなるわけですが、 今年は、ニギリメシ背負ってゆっくりゆっくり歩いてみたいと思っている。
 
 サトウハチロウは「小さい秋みつけた」と歌ったが、サトウハチロウの見つけた秋と、 尾去沢の秋は違うかもしれないが、尾去沢には尾去沢の秋がある。 私は紫シキブのあの小さい実が陽の光りを受けて、宝石のように輝く秋が好きだ。 そこには碧い空があり白い雲がある。
 
 私の見ているふる里の秋は、井の中の蛙が、 葦(よし)の髄から天上覗いているようなせまい小さな話しで、わらわれると思いますが、 たゞ私はふる里のよさがあり、美しさがある。 そこには、そのふる里に生きてきた人達の心がある。そんなことを思っている。
 NHKの俳句大会に落選した話しが紫シキブの話しになってしまいましたが、 この紫シキブがいっぱいふえたら、その紫の実が秋の夕陽に照り映えて、 五の宮の夕焼けが一そう美しくなるだろう。 そんな夢を語ってこの話しを終ります。

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