GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(3)

 保育園の話しではないが、昔子供会にかゝわっていた頃、よその子供会では能代の海とか 盛岡の方に連れてゆくとかいうとき、我が軽井沢の子供会では、一年生から中学生までナベッコショッて 浦志内の滝に行った。帰り一・二年生は疲れたろうと花輪からバスで帰した。 私達が歩いてもどって来たら、疲れたはずの子供が外ではねまわって遊んでいた。 また、松子沢ダムの堤防を通って花軒田の方からぐるっとまわってダムの下に出て、 あのダムの堤防の石垣を「下を見るな」と横一列にならんでよじのぼらせたこともあった (そんなことがわかったら鉱山の方から大目玉を食うだろうが)。 その頃の子供達はもう孫が保育園に入っているかもしれない。 そんな事、覚えているだろうか。
 
 保育園のところに植えたコケコッコの花は枯れてきたりで刈ってしまったが、 コスモスはきれいに咲きはじめている。 台風の来る前に適当に支柱を立てて、風に倒されないようにしたいと思っている。 あそこの河川改修工事はその後どうなったのかわからないが、それはそれとして、 来年はコケコッコの花は、保育園の垣根のところに植えたいと思っている。 うまくいけば、きれいな花の垣根ができる。 知っている人二・三人に春になったら苗を下さいと頼んでいる。
 
 保育園には保育園のやり方もあり、きまりもあるだろうから、私がとやかくいうことではないが、 そんなことを思っている。
 私は教育の専門家でもないし、もちろん幼児教育がどうの野外教育がどうのということは全然わからない。 たゞ私の生まれ育ったのは、下タ沢という狭い小さな谷間だったので、 遊ぶところといえば山よりなかった。 それでつい天気がいゝとオニギリ持って山へ行こうとなるわけですが。
 
 手をつなぐということは、心をつなぐことでもあると思っている。 お互に一本の縄を持つことによって心が通じ合う。年寄りを大事にしよう、 親を大事にとようと口を酸っぱくしていうことよりも、 一本の縄を持つこと、手をつなぐことが大事だと思う。
 私は、保育園の時代は心を育てる時代だといゝましたが、 でもそれはどんな具合に育っているかは目には見えない。 まして小学校に入るようになると、教えること、習うことがいっぱいで、 そんな目に見えない事にはかまっていられなくなるだろう。 いゝかえれば、保育園の時代は、 この世をまっとうに生きて行くための心の根っこを育てている時代だと思う。 根っこは土にかくれていて見えないが、根っこがしっかりしていなければ、立派な木は育たない。 花と遊んだ子供達、山で遊んだ子供達は、 決してあのホームレスなどといわれる弱い人達をなぐり殺すような冷酷残忍な心の持主にはならないだろう。 子供達にそんな夢を託しながら、さて来年の草刈りはと、なまけものの心臓と相談しながら考えている。
 子供は地域の宝だ、とよくいわれる。私達は小さい頃一寸いたずらすると 「このクサレ タカラモノ!」とどなられて怒られた。 このタカラモノがくさらないようにみんなでやさし見守りながらたくまし育てていきたい (ということで、この駄文を終ります)。平成二十一年九月五日
  尾去沢の皆さんへ

[バック]