下タ沢会によせて(覚書)

内藤湖南博士のこと − 又新学校(本校)と初代校長の碑、田郡の学校の吊り鐘 −

 先生の話しが出たついでに、といえば大変失礼になるが、今までふれていなかっ たので、内藤湖南博士が若い頃、元山の先生をしていたとしいう話しを書いておき たい。

 内藤湖南先生は東洋学の泰斗、鹿角を代表する、というより日本を代表する偉大 なる学者として、私達はいつの間にかその名前をおぼえたが、山かげの学校を語る ときも、本校の歴史を語るときも、尾去沢の学校に入り、元山の先生をした、と誇 りを以って語るわけですが、今両方の学校史からその足跡を尋ねてみると、

 先ず尾去沢小学校の100周年記念誌によれば、「彼は父十湾の尾去沢鉱山勤務のた め、八才のとき毛馬内から移り、翌年九才の明治七年(尾去沢、元山の開校した年) 尾去沢小学校に入学した」という。彼は自伝に「校長は大森武七といった。花輪か ら来て教えた人で、若くして新しい教育のことも知って居たやうに思う」とまた 「小学校は建物はあったが、全く寺子屋式で、座ってけい古する。代る代る先生の 前に行き、字指して本を読むと、先生も火鉢をさしながら教えた。その後次第に椅 子やテーブルも出来、小学校の体裁を具へるに至った(学校創立当初の様子を書い たものは見た事はなかったが、元山も同じような状況ではなかったろうか)。」そ して「明治十三年夏まで尾去沢の病院助手の気に預けられていたが、父十湾が毛馬 内小学校長に転じたので、毛馬内にもどっている。」という。  三ツ矢沢学校史によると、「元山小学校の沿革史には、明治十四年十月二十二日、 訓導斎藤麟道依願免職となり、本郡毛馬内の住民内藤調一並に同人長男虎次郎其後 任を嘱託せられ本日赴任せり」とあると(内藤調一は十湾、虎次郎は湖南)。それ から明治16年3月秋田市販学校に入学するまで約1年半、元山の学校で教えていたこ とになる。その生涯の業績は省略するが、三ツ矢沢学校史は「内藤湖南先生が青年 時代当校に於て教職をとられたことは、本当に意義深いものがあり、更には当校の 歴史を一層輝やかしいものにしてくれたことを思へば、本当に有難く思う次第であ る。」と記している。

 話しは違うようだが、本校の方をみると、尾去沢小学校が創立当時、なぜ又新学 校といったのか、百周年記念誌をつくるときに、担当者がいろいろ調べたようだが、 はっきりしたことはわからない。また初代校長の大森武七という人も花輪の士族と いうだけで、どういう経歴の人で、どうなったかもわからない。たゞ円通寺に「大 森錦陽先生之碑」というのがあるが、その裏には「昭和十二年十一月尾去沢尋常高等 小学校校友会建立」とあるだけで一切の説明はない。今の人達には名前を見ても、 何にが何んだかわからないと思うので、初代校長先生であったというくらいの(そ れよりわからないのだが)説明はつけておきたいものだと思っている。  また元山の学校で最初に教えた先生は、花輪の長谷川萬太郎という人だというが、 これまた、どんな人かわからない。

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