GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

鹿角の昔ばなし@:特集 八郎太郎三湖伝説 おわりに@

 十和田湖崋山の噴火は915年とかいわれると、随分昔だと思うが、延喜15年となれば、第60代醍醐天皇(在位897〜930)の頃、菅原道真公が大宰府で死んだのが903年、清涼殿にカミナリを落としたのが930年、となれば、大分近くなるが(昭和57年発行の鹿角市史によれば、十和田崋山の最期の噴火は、1,000年前という)、1,000年前だろうと1,100年前だろうとそれはいゝとして、その大噴火は京の都の方に伝わっていたろうか、歴史を見れば伝わっていたと思うが、それは天災地変でどうらにもならない、と知らん顔していたのかもしれない。
 
 とにかく、降り積もった火山灰(シラス台地)が今も残っている。私が小さい頃花輪の方のタンボには大人の人が5〜6人でかかえるような大きい石がポツンポツンとあり、中には松の木の生えているようなものがあった。私の父の話しによると、あれは八郎太郎を追っぱらうために神様達が投げつけた石だ、ということになるが、今は耕地整理などでみんな処分されて見ることもなくなった、がどこかの家の庭石などで残っているかもしれない。あったらその石を要所要所に置いて、十和田の噴火(そのときの石であるかどうかは、専門家はすぐわかると思う)と八郎太郎の伝説をからめた説明文をつけておくと、鹿角観光の夢も一つふくらむだろうと、そんなことを思っている。
 
 尾去沢の文化財保存会では、史跡の標柱はあっちこっちに建てたが(これはどこの地区でも同じだと思う)、今度は伝説の伝わる場所(こゝにこんな話しがあった)がわかっていたら、そこにその話しを書いた説明板というか、案内板のようなものを建てるのもいゝではないか、などと思っている(人りの通わぬ山奥ではしょうがないが)。
 
 ともかく今回は八郎太郎にまつわるわしだけ書いたが、鹿角の伝説の本には、尾去沢に関係する話も15程のっているので、機会があればそんな話しも書いてみたいとおもっている。その話しなら俺も知っていると面白い話もが次々と出てくるかもしれない。
 
 今の子供達はね昔話しだの伝説だのといってもそんなのバカらしいと見むきもしないかもしれないが、私はテレビだのゲーム機だので遊んでいる時代ではなく、オッパイのんでいる赤ン坊は無理としても(本当はその頃からが大事だとは思うが)、片コトでも話せるようになったら、昔しっこでも伝説でもいっぱい話してやったらいゝと思う。それは何物にも汚されない純真無垢な心の時代に、人間としてしいいゝこと悪いこと、喜怒哀楽、思いやりや有りがとうという感謝の心。人間として生きてゆくための根幹になる心、心情というか、うまくいえないけれども、そうした人間の大事な心を養うのに、字も知らない読むこともできない頃が一番大事な時期ではないかと思う。今頃そんなことを思ってももうおそいけれども(私のことだが)。
 
 昔話や伝説、童話などに秘められている心。その心を感じとってくれればいゝ、その話しの中に秘められている心、そこに価値があり大事にしなければならない、大事に伝えていかなければならない由縁がある。
 鹿角市でこの「鹿角のむかしこ」や、「鹿角の伝説」の本を出したときの教育長は、私にもなじみの杉山新吉先生でした。この二つの本の最後にそれぞれ「昔話しは心のふる里です」「伝説は構成に語り継ぐ郷土の歴史です」と題して書かれた言葉で、私の言葉足らずをおぎなっていただいて、あの訥々と話される温顔をしのびながら終わりとします。

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