△作沢沼・浮島湿原形成の過程模式考察 作沢沼は東西200m:南北100mで面積20,000uと表現される場合と、 東西150m:南北100mで面積15,000uと表現される場合とがあったようである。 20,000uという数値の根拠は25000分ノ1地形図に描写された作沢沼の形による ものであろうし、15,000uと表現されるのは、いずれかの部分を測定した 結果から計算されているのではないかと思われる。この沼を紹介している 新聞記事では各紙とも20,000uの数値を掲載している。今回の調査探訪では、 実測が困難な自然条件を想定し、小型レーザー距離測定器(NiKon・LASER800) を使用して、東西140m:南北90mという測定値を得た。またこの測定器の精度の 高さを利用し、ミツガシワ帯とアシ原帯・それに残存ブナ帯の幅も測定し、 湖水図に示す分布図を作成することが出来た。 ※作沢沼は、湖沼定義に従えば沼ではなくて湖水条件が当てはまり、作沢湖 と呼ぶべきであるが、作沢沼を含む八幡平一帯は、全体として湖水には八幡沼 ・ガマ沼・月夜沼・熊沼・大沼などと「沼」の名が使われているから、ここでは沼と湖の 区分はなくて、同意語として使われている事になる。 △湖水域と浮島及び周辺湖岸の状態図 この沼の特色は、湿原の中に池塘(ちとう)や湖水があるのではなくて、 沼の水域に浮島としての湿原が存在し、沼の周辺には浮島を上回る規模の 湿原形成は見られず、漂流する泥炭島上に保たれ続けている事にある。 泥炭層は、そこに次々と新しい湿原が再生されて、その植物遺体が 堆積していかなければ、浮力を失い、沈んでしまう。この浮島が長く存在して いるのは、浮力を保つ植物更新が安定持続している事を示している。この浮島湿原 の成因は、最初に沼の浅水域にミツガシワやアシ原帯が繁茂し、その植物遺体の 堆積によってアシを主体とした泥炭層が作りだされ、その後は沼の水位が低下した 時代があり、この段階では泥炭層表面が水域から出てしまい、アシ原が衰退し、 これに替わり雨水や雪解け水で涵養されるミズゴケ・モウセンゴケ・ヌマガヤの 湿原の発達が見られたであろうと考えられる。これらの湿原植物の泥炭層堆積量は、 アシ原湿原時代と比較すると極めて小さなものであった。やがて沼の水位が 上昇し、一時的ではあるが湿原が水没する状態となり、この段階で泥炭層全体が持つ 浮力によって、沼の基盤から剥離した湿原は浮島となって浮遊するようになった。 この沼の水位の上昇は、比較的短期間に進行し、泥炭層の剥離浮上もあまり期間 をおかず発生しているように考えられる。浮上して周辺斜面からの腐食土や 落葉の供給から隔絶した湿原は、アシ原湿原に戻る事も、ミツガシワ湿原に戻る事もなく、 長い期間を貧栄養雨水涵養型のミズゴケ・モウセンゴケ・ヌマガヤを主体とする 安定した湿原環境を作り出してきたのである。沼の周囲のミツガシワ・アシ原植物帯 と明確な違いを示す浮島湿原の成立は、おおむねこの様な経過によって分離発達 したものである。 |