鹿友会のこと
「はじめに」
 
 
△「鹿友会とは」その三 − 「鹿友会五十年史」創立当時
 
 「明治十三年、小生は先づ東京に出て、大里(文五郎)君も翌年出京せられましたが、その時 小生は已に工部大学寄宿舎に入り、仝君は本郷に下宿して或私立学校に通学して、 頻りに受験準備を急いで居りました。その時分の東京の遊学は、当今の少年諸君には夢想だもなし 得ざる大奮発を要しまして、百数十里の長程中々容易に往復も出来ず、寤寐故郷の美なる山川を 懐想しながら、蛍雪の業を励んだものです。かういふ有様故、幼年来、机を共にせる二人は、 東西に離居して、稀に会談する場合の如何に愉快なりしか、諸君の想像し能はざるものでした。
 
 この時代吾々は、彼の西国立志偏に心酔せると、一方諸国の俊秀に対する競争心激烈なりしとにて、 実に寸陰を惜んで、一心不乱に勉強せることは、是亦当今貴公子学生諸君の夢想する能はぬ事と思はれます。 併し故郷は忘じ難し、旧友は久しく見ざる能はず、毎月一回位は互に訪問し、相見て先づニヤニヤ笑ったものです。
 
 斯くしてゐる内、何の話の種もなく、大切なる時間を費すのも無益だとの相談となり、毎月日をきめて相会し、 何か平素感じたことを文章となして持寄り、互に読み合ふべしとの事となり、爾来続々「精神一致何事かならざらん」 的の名文を交換せしが、其時の原稿を散失せるは遺憾に堪へません。文章の可否は兎に角、生気溌溂意気衝天 の概があったものでした。
 
 その後佐藤健次郎君も加はり、石川壽次郎君、青山芳得君、湯瀬禮太郎君、内田清太郎君(君は前より在京)等 続々鹿角衆の上京を見、初めて或会合(鹿角会か)を催し、一には郷友の親睦を謀り、一には互に励まし合って 郷党後進者の模範となり、益々東京遊学の立志者を殖やさうぢゃないかと云ふ相談より、遂に我が鹿友会の成立 を見るやうになったと記憶いたします。
 
 爾来最も鹿友会のために尽力せられ、会をして今日の地歩を占むる土台を作ったのは、全く大里君の賜です。」

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