鹿友会誌(抄)
「第拾冊」
 
△史伝逸事
○大里壽翁伝   川村左學稿
 往古(源頼朝藩府創業以前を指す)より鹿角郡に四家の豪族あり、所謂安保氏、秋本 氏、成田氏、奈良氏、是なり、此四家、皆、京都より下りしと云ふ、而して安保氏は大 里村に住し、因てこれを氏とす、翁は其後裔にして、大里武助翁の一子なり、
 天保四年七月二十日に生れ、初名は秀助、後ち今の名に改め、資性温厚忠実、才は文 武を兼ねて多芸多能なり、長沼流兵法、山口流剣術、諸賞流柔術、一火流砲術、園傳流 鎗術、印西派弓術、關流算術、須藤流書法等、或は其中位に達し、或は其免許を得るに 至り、傍ら俳句、謡曲、茶道、囲碁を嗜む
 
 明治三年江刺県寸陰館訓導補となり、五年秋田県学校主簿に任せられ、同年同県七大 区三小区戸長鹿角郡地券取調掛となり、六年同県二大区副区長兼学区取締となる、
 昨年学制の発布により、本年秋に至り秋田市に伝習学校(今の師範学校)を開設して 入学生を募る、翁、因て川村左學、折戸龜太郎、齋藤麟道、三人を選抜して、是に応す、 翌年正月卒業して帰る、而して三人の教員を以て数百の児童を教授すること能はす、是 に於て有志者数十人を募り、是に伝習せしむること二ケ月余、遂に三月を以て花輪小学 校を創設し、四月三日附を以て県庁に報告す、これを郡内小学校の嚆矢とす(花輪尋常 小学校にて、四月三日を以て創立開校記念日とするは、全くこれに由る)
 
 其後文部省より全国各小学校に補助金を下附せらるゝや、翁、之を費消せす貯蓄して 学校基本財産となし、今既に金千数百円に至る、是、他に稀なる所なり、
 九年同区地租改正事務員となり、此年二大区八小区内小学校へ宛て、小学読本百部 四百冊を寄付し、貧児に貸与す、十年副区長発せられ、同区八小区戸長となる、以後鹿 角郡書記、県会議員、郡徴兵参事員、花輪町会議員、郡会議員、参事会員等、明治二十 七年まで屡進退進退ありしことは、明治褒章録及明治忠孝節義伝に詳なり
 
 三十二年五月、佐竹侯爵より育英会鹿角郡委員を嘱託せられ、三十五年十二月復た花 輪町長に当選し、辞すれとも聴かれす、翌年四月職に就き、三十七年六月病のため職を 辞す、
 翁、喘息の持病あり、故に屡出てゝ屡退く、惜い哉明治三十九年十二月三十日、病て 卒す七十四、郡内悼惜せさる者鮮し、翁、旧主家に厚く、明治十一年、主唱して之を盛 岡より迎へ、花輪館に居らしめ、其窮乏するや、毎月食料を献し、欸待して終身変せす 、
 翁の先妻、川口氏二男二女を挙けて没し、継室太田氏三男四女を挙け、而して長男 鈞太郎は世を早うし、二男禎次郎家を継き、三男文五郎医学博士となり、別に一戸を創 立す、四男武八郎は法学博士となり、姉高子の養嗣たり、五男周藏は今、大阪府立医学 校に在り、其学を修む
故大里壽翁追悼碑

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