鹿友会誌(抄)
「第四冊」
 
△史伝逸事
○鹿角四天侍の事
 都より阿保氏なる一士下り来り、其子三人ありたり、即ち一男は大里を領したる大里 上総の先祖にして、二男は花輪村を領し、花輪次郎の先祖たり、三男は柴内を領し、柴 内彌次郎の先祖これなり、
 其後秋元、成田、奈良の三士下り来りて、奈良氏は大湯に領地を占めたり、
 右の四氏をは、時の人、之を称して阿保、秋元、成田、奈良の四天士と申せしといふ
 
 此紀事は、鹿角由来記といふ一写本に記るしあるものなれとも、素より何時の頃にか 、何人の之をものせしにや、毫しも考証の由るへきなければ、阿保等四士の何人たるや 、其性行少しも之を知るに由なしと雖も、現今我鹿角に於ける姓氏中、阿保(今は安保 とするもの多し)、秋元、成田、奈良を称するもの多きによりて、考ふれば、或は此四 士、鹿角土着の住民を放逐し、遂に己等自ら其地を分領し、以て其子孫を今に伝へしと いふも、強ち取るに足らぬ伝会の説ともいふへからす、故に以て参考のためにせんと、 左の紀事と併せて茲に之を記す
 
○鹿角四拾二館に侍四十二人居候事
 田山村に田山左京之進領地の館あり、後に畑山三郎、之を領せり
 左比内村に左比内釆女領地の館あり
 
 湯瀬村は湯瀬中務の領地にして、本名成田氏、後に湯瀬刑部、之を領せり、本名は安 部氏にして一戸より来りて、此処に居館を構ひたり
 長峯村は長峯下総、之を領せり、本名は成田氏なりし
 
 三け田村は三ケ田左近の居館のある処にして、本名は阿保氏なり
 谷内村は谷内三郎の領地にして、本名成田氏にして居館あり、南部御先祖御下り以後 一戸彈正左衛門、之を領す、本名は武田氏なり、是れ九郎正友と共に遣はされたるの人 なり
 
 長牛村は秋元彈正左衛門の居館のある処にして、彈正左衛門浪人となりたる後に、一 戸摂津、之を領せし、鹿角の旗頭として三戸より御一門南部九郎正友を遣はされ、石鳥 谷村に其居館を構ふ、此時一戸摂津、一処に遣はされたり
 夏井村は夏井但馬の居館にして、本名阿保氏なり
 
 白缺村は白缺勘解由ケ領地たり
 石鳥谷村は石鳥谷五郎の領地にして、本名阿保氏なり、後に至りて南部九郎正友、之 を領せり、鹿角三百丁の旗頭として三戸より遣はされたるの人なり
 
 松館村は松館越前の領地にして、本名阿保氏なり
 尾去村は尾佐利越中の居館ありし所にして、本名は阿保氏なり
 
 小豆澤村は小豆澤駿河の領地にして、本名秋元氏なり
 大里村は大里上総の居館ありし所にして、其領する所千石、本名は阿保氏なり
 
 玉内村は玉内大炊之助、之を領せり、本名阿保氏にして後、浪人となりて本領を出で たり
 花輪村は花輪次郎の領地にして、本名阿保氏、其先き大里上総の先祖と兄弟たり、花 輪臥牛、本館へ移り居る其子孫、村替えにて九戸の圓子へ知行、三百石にて移さる、後 に天正八年大光寺左衛門佐正親を、信直公より知行三千石にて花輪へ遣はされ、花輪、 尾去、石鳥谷、三ケ田、夏井の五ケ所を領し、花輪は其本館たり
 
 墨村は、墨丹後の領地にして、本名秋元なり
 高瀬村は高瀬周防の領地にして、此外久保田、用之目、花軒田、松山、高梨子館に其 領地ありて、高瀬は其居館たり
 
 高屋村は高屋筑前の領地にして、本名秋元氏、浪人となりて秋田へ行きたる後、信直 公より佐藤近江に其所領として下賜せられたり
 柴内村は柴由(柴内?)彌次郎の領地にして、本名阿保氏、千三百石を領せり
 
 白牛村は白牛六郎の居館にして、本名阿保氏なり
 中柴内村は中柴内八郎の居館にして、本名阿保氏、柴内彌次郎の一族なり
 
 折加内村は折加内甚左衛門の居館にして、本名阿保氏、柴内彌次郎の一族なり
 高市村は高市玄番の居館にして、本名成田氏なり
 
 新斗米村は新斗米左近の居館にして、本名奈良氏なり
 大湯村は大湯左衛門の所領にして、本名奈良氏の宗家なり、左衛門、三子あり、嫡子 を四郎左衛門、二男を治郎左衛門、三男を彦左衛門といふ、四郎左衛門は天正十九年九 戸へ一味徒党して生捕られ、九戸氏共に三廻(三迫?)にて切腹し、治郎左衛門と彦左衛門の二人 は、津軽へ落ち行きしに後、治郎左衛門は被召出、知行弐百石拝領、彦左衛門は津軽へ 奉公せり、大湯村、後に大湯五兵衛の所領となれり
 
 神田村は神田十郎の所領にして、本名成田居館は碁石館にあり
 小枝指村は小枝指左馬の居館にして、本名奈良氏なり
 
 毛馬内町は毛馬内備中の所領にして、本名成田氏の宗家なり、後に南部靱負信繼の所 領となれり、天文年中三戸より遣はされ、知行弐百石を領せり、即ち其領地は毛馬内、 瀬田、大缺、赤澤、楢柏鉢、鰐口屋敷、菅生鉢にして、毛馬内に居館あり
 大地村は大地甚之進の居館にして、本名成田氏なり
 
 小坂村は小坂筑後の所領にして、本名秋元氏、後に大湯五兵衛の所領となれり
 濁川村は濁川但馬の所領にして、本名秋元氏なり
 
 荒川村は荒川備中の所領にして、本名成田なり
 八幡館は秋元兵部介の領知にして、砂子澤に居館あり
 
 高清水村は高清水豊後の居館にして、本名成田氏なり
 關神村は關上安房の居館にして、本名成田氏なり
 
 蘆名澤村は蘆名太郎兵衛の居館にして、本名奈良氏なり
 式部の館あり、即ち蘆名澤観音札所なり
 
 草木村は奈良越後の領地にして、寺坂、室田も又其領する所にして、丸館に居館あり
 高梨子館村は高梨子土佐の所領にして、本名秋元高瀬周防の一門、子無し断絶す、後に奥 四郎左衛門、之を領せり、四郎左衛門は糠部三戸より文明年中に来りて、川原館に居館 を構ひて、之に居る、秋田と鹿角合戦のとき、高瀬の周防の部下たり、後、明暦元年三 月、高梨子館に移り、それより四郎左衛門、高梨子館宮内と称したり
 
 総て鹿角四十二館といふも、今此処に記るせしは、三十八館にして、尚ほ四館を欠き 、其何れたるを知らず、知る人ありて教へ玉はらば幸甚、因みに曰ふ、右に掲くる諸ろ 諸ろの館は皆、之を村とし、独り毛馬内のみ特に町とせしは、筆者の誤りなるへきか、 将た別に因縁のあるへきか、尤も毛馬内領とする所は、現今秋田領に属する所まで境域 にありて、其境域の広き、他に類なし、或は此等一因となりて、町に称せしにはあらさ るへきか、併せて之を識者に問ふ   山本祐七記

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