鹿友会誌(抄)
「第二冊」
 
△先輩紀伝
○青山忠七氏
 名は金貞仙流と号す、祖を吉郎兵衛と曰ひ、商法に巧に、晩年に至り富巨万を重ぬ、
 父を吉右衛門と曰ひ、墾田に長し、地を得る事数百町 なり、故を以て其家産、一郷の上に出つ、時人、青山長者と称するに至る、
 忠七、其殷富の中に生長し、軽煖肥食、真に貴公子の風あり、
 平生文墨に耽り、書は湯川玉流を師とし、書は圓子清親に従て学ふ、
 性謹勉唯芸是強む、故に数年ならすして、技、大に進む、其字を書するや、全身務めて 端正にし、而して筆を揮ふて、紙に落せは、即ち雲烟を生す、  門生に字を教ゆる、亦必ず体格を正すを以て先とす、 性歴游を好み、足跡殆ど奥羽に遍し、到る処皆其書画を請はさるなし、 或は名山水に逢へは、起坐俯仰機を忘る
 
 曾て江戸に遊ふ事数月、都人士の神社に掲る処の大燈篭を描くを請ものあり、忠七、 凝精揮毫卒業して、之を其人に与ふ、価を問へは、則曰く、金一両と、其の人曰く、君 之を絵く幾日を費すや、曰く、二十日、其人驚曰く、二十日の日子を費して又其粉墨を 費す、得失相貨(此冠+貝)せさるを如何せんと、即ち大に物を贈て之を謝す、忠七、受けすして曰く、 予、書を楽むものなり、売るものに非るなりと、都下、之を伝称し揮毫を請ふもの陸続たり
 
 忠七、衣袂毎に虱多し、更に新衣を着ると雖も、数日ならすして復た生し、稠人の中 にて襟を撥して之を捕り、歯摧して曰く、けしからん虫と、傍人失笑するも、恬として 顧さるなり
 
 忠七、老に至るまて毎晨臨池を廃せす、死に前たつ三日強て起て字を習ふと云、其篤 信如此
 忠七、父祖没すと雖も、遺財猶夥し、而して性恬淡無慾、生計の何物たるを知らす、一 に家人に委す、故に産漸く傾き、晩年に至り、殆ど貧甚し、
 而して弊袍身を纏ふと雖も、甘美に非れは、口に入る事能はす、家人大に之を困むと 云、安政二年三月老死す、年七十三

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]