鹿友会誌(抄) 「第四十五冊」 |
△天津に於ける石川伍一先生五十年祭 烈士石川伍一氏が国難に殉じ、天津城西門外の露と消えて、早くも五十年、故人の偉業を 顕彰する殉難記念碑が、天津神社境内東隅に建立されてから十六年を経過した、廿九歳を 一期に従容として大陸に散た故人の命日を廿日に迎へ、同氏の偉業が漸く記憶から忘れ られようとして、在留邦人の内には、此の記念碑のあることすら気がつかぬものはあるのを 遺憾とし、興亜翼賛会天津支部では、同氏の五十周年忌に際し、其偉業を顕彰し、記念碑建設 の経緯を明にし、厚く其の忠霊を弔ふと共に、敢然国難に挺身する気宇に学び、悽愴苛烈の 大東亜戦下在留邦人等しく、時難克服に邁進せしむべく、廿日十六時から福島街東本願寺別院 に於いて、仏式に依り盛大な法要会を執行することになった……。 ○天津東亜新報より抜粋 ……東亜の時事、日に多難の明治十七年、十九歳の若き胸に大陸雄飛の烈々たる決意をぐっと 抱きしめて、長崎を経て上海に渡り、四川の奥深く突入、苗蠻の巣窟に入り、幾度か危難を 冒して地勢と人情風俗に親しく触れ、明治廿四年帰朝したが、更らに天津に画策の足を運び、 山東省直隷盛京の地を具さに調査するとともに、時の海軍駐在官を輔け、国家の為め大いに 尽力した、斯くする内に日清間の風雲はいよいよ悪化し、廿七年日清遂に干戈を交へるや、 同氏は鐘崎三郎氏と共に天津に在て、諸方面の敵情偵察に席の暖る暇なく、我軍の行動に 資すること実に大なるものあった、所ろが彼の行動は早くも清国官憲の推知する所となり、 身の危険ひしひしと感じて来たので、小村公使等と共に帰国しようとしたが、敵情偵察は 如何に須要なるかに思ひをいたし、断乎、後に留まりて自分の任務に決死する覚悟を固め、 暗夜に乗じて船を脱した、併しながら敵の探偵は彼等の周辺に執拗な監視をつゞけ、かくて 身辺の危険は愈々迫まって来た、幸にして鐘崎氏は虎口を脱したが、彼は遂に支那客棧に 於いて、敵兵の為め捕へられ、天津城西門外に於いて銃殺されたのであった。臨刑の時には 神色自若、従容として刑場に立ち、三弾を受けて始めて斃れたといふ、同士たちは之れを 聞いて、無限の哀悼をささげると共に、彼れの遺志貫徹を誓たことは勿論であった、…… 故人の遺功に依り従五位の列せらる。 (附記以下を省略) |