鹿友会誌(抄) 「第四十五冊」 |
△廣島芳夫君を憶ふ 攻玉舎土木科を卒業して、直ちに当時創立した計りの北海道鉄道株式会社に入社した、 明治四十一年頃であったらふ。 大正十二三年、私の札幌に在職中は、苫小牧近くの沼端駅に居を定めて、建設主任として 同社に無くてはならない重鎮の一人となって居った。 沼端居住時代は、君の生活に大変化のあった時である。此処で君は養母を亡ひ、愛妻に 逝かれた、男二人女三人の子供を残されて、母と妻に逝かれた君は、人知れぬ苦労をしたに 違ひない。 序があれば、私も君の処に行った、君もよく札幌の私の処に来て、泊って呉れた。 其後良縁はあって、後妻を貰った。 長男新一君は、小樽高商卒業後、住友本社の採用するところとなり、鉱山部に入り、 現在は宮城県の砥澤鉱山に、経理主任として在職中だが、応召前は北海道の金山に居った。 昨年の九月初旬である、突然君の訃報に接して驚いた。昨年の正月、君の二男謙次郎君は 召集で千葉の兵営に入ることになったので、久し振りに会ひたいから、次男を見送りがてら 上京するやうすゝめてやった、其返事に初めて君が病気をして、札幌本社詰となって居る ことを知った。札幌に家を建てゝ、家族を札幌に住ませ、現場には自分だけが出張して 居ったのは、四五年前からのことであるが、自分も札幌に常住して居ったことは初耳であった。 一年前健康を害してからのことらしいが、私に心配をさせることを恐れて、知らせずに居った とは如何にも君らしい、君の逝った時は、今の妻君と末の娘と二人だけ、家に居ったらしい。 長男はいまだ帰還せずに中支にあり、次男は千葉に入営して居り、娘一人は嫁して蒙古にあり、 今一人は嫁して横浜に居るのである。 長男新一君は、十二月帰還したから、今四ケ月待って居れば会はれたものをと、誠に 気の毒に思はれる。 朝顔の色あせる秋、札幌の時計台の露と消えたのである。噫々!! 享年六十歳。 朝顔の色あせ友の訃報あり 莞子 読経して共を偲びぬ秋の夜 露の秋時計台の鐘を追憶す 召され子を憶ふ蜩鳴き止まず 長病みに逝く友多く秋わびし |