鹿友会誌(抄)
「第四十五冊」
 
△小田島信一郎君経歴
 前記経歴欄のサラリー生活をして、遂に病を以て逝く、悲哉、君は酒場等を開業した時の 言を想起するに、先づ自由人として、財を蓄へ後、大いに雄飛せんと企画して居た様であった。
 其れは震災等の為めに悉く齟齬して了うたのは、同情に堪へない事である。君にして幸運に 恵まれんか、鹿友会の一異彩としての存在となったであらう、
 
 由来人物を月旦し品隲するには、其の本人の思想を知らねばならぬ筈である。譬へ形の上には 幸福であり、栄達であっても、浮雲の如き菫花、一朝の栄であったり、自らの心に信ずる 自適のものでなかったならば、世間は成功と称へるも、自ら内に顧みて満足するものでないかも 知れぬ、君は尚(人偏+尚)し知事になり次官になり、重役になり社長になれば、人は成功者と 讃へたに相違ないが、其の実現は出来なかったとて、失敗者とは評されぬでなからうか、 何んとなれば、君の理想は雄渾なるものありて、衿持は高く、獲得するに至難なる抱負を有して 居りし為めでなかったか、籠中の鳥として愛護寵愛せらるる生活より、天空快濶、時に雨に風に 餓に苦しむとも、其れは小なる不幸であって、飛びたい所に飛び、為したい事を為し、何等の 束縛もなき自由を得ざりしならば、大なる不幸とするであらうと思ふ、
 其の人の成功の評価は、先づ其の人の性格を知て後、定むべき事と思ふ。
 
 終りに君の逸事中、後に遺して置きたい事はある。親友佐藤賢治君をアカジ銀行に推薦した ときである。自分は堂々たる東大法科の卒業者である。佐藤君は蔵前高工の卒業者である、 其れを俸給は自己より多く銀行より出させて、自分は佐藤君より少額で満足したのであった、
 是れは凡人には却々出来得ざる美事佳行と言はねばならぬ、君の半面は斯る麗しき性質の所有者 であった。
 
 多くの人は、帝大でも出づると、高等官とか重役とか、代議士にでもならないと失敗者と看做す 弊はある。其れは正しい判断であらうか、今尚ほ町村長などは、其の町村の一局地に於いて、 重視せられる金持の主人公などは挙げられて居るが、斯るお山の大将、己れ一人的人物のみ、 其の選に当るなどは、封建思想的と申すべきでないか、広く天下に其の力量を揮ふて貰はれる 人物本位とすべきであらうと思ふ。
 我が毛馬内の大里町長の如き、帝大出身者は、幸に町宰として在職したればこそ、毛馬内に 工業学校は出来たのであるまいか、小田島君の経歴を大里君の如く役立たせる機会なくして 没せしめたるは、寔に惜しむべきことであった。
 君よ、能ありて不遇なるは、能なくして幸運を得るより男子の面目である、宜しく瞑ぜよ。

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