鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△和井内貞行氏
 
 十和田湖開発の大恩人 和井内貞行翁
  大願漸く成就
 貞行はこの失敗を天の与ふる試練と心得。七転八起を覚悟して断念しなかった。明治 三十五年青森市なる東北漁業組合本部に行って幼魚に関する従来の苦心を述べ以て血路 を開かうとした。たまたま其の席に居合せた長野県某会社の社員が、
 『お話の様子ではカバチェッポが適当かと思はれます。カバチェッポは一名を姫鱒と いひ、原産地は北海道の阿寒湖ですが、十和田湖には適当でないでせうか。姫鱒は形が 小さいが、川へ下らないし、三年後には必ず放流地に帰ってきて産卵する特性があるか ら漁獲も困難ではありません』
と話してくれた。彼にはそれが神の声のやうに聞えた。そして最後の力をふるって姫鱒 の要職にとりかゝることにした。
 資本はない。唯一人相手にしてくれる人もない。貞行は三度、毛馬内の父を尋ねた。 父はだまって聞いてゐたが、今は残った全財産である山林を売って資金をつくってくれ た。
 かくて青森県庁の紹介でカバチェッポの卵を移入し、人工孵化に着手した。それは同 年十二月のことであった。翌三十六年五月十日五万尾を放流した。
 だが、果たして三年後に成長した姫鱒は帰ってくるだろうか。赤貧洗ふが如き苦境の 三年は蓋し短くなかったであらう。
 彼の至誠が天に通じたものと見え、終に待遠しい成功の三年目が来た。同三十八年九 月であった。髪はぼうぼうとのび、やせおとろえた体に、よれよれの着物をまとった和 井内貞行が今日も魚見梯子の上から、らんらんと光る目で湖をじっと見つめてゐた。も う長い間毎日毎日姫鱒のくるのを待ってゐるのである。
 日は西の山に落ちかゝって、湖は紅色にそまってゐた。木の上の貞行がふと体をのり 出した。そして、沖の一点をじっと見つめた。そこが、俄かに波立ちさはぎ始め、その 白波が見る見る岸の方に近づいてくるではないか。貞行の顔には喜びの色がさっとひろ がった。
 鱒だ! 姫鱒の大群だ!
 「あツ嬉しや、大願成就」
 
 姫鱒はその性質通り三年目に放たれたこの場所に帰ってきたのである。湖水の色も変 はるばかり、雄飛に銀鱗を閃かしつゝ泳いできたのである。
 顧みれば明治十七年彼は二十七歳で養魚に着手し、爾来こゝに至るまで奮闘實に二十 二年、四十八歳にしてこの成功を見たのである。
 この年(明治三十八年)彼は湖岸の荒地を開拓して、新たに孵化場を設け、湖産の鱒 の孵化を始めたが、之は現在東洋一と称せられてゐる孵化場の前身である。
 其の後和井内家の養魚事業は順調に発展し、孵化場で育てた鱒を毎年三百万尾乃至九 百万尾を放流し、其の漁獲高も年々二百万尾を越へるに至った。
 しかしこの年、東北地方は大凶作、十和田湖畔の山村では米は勿論雑穀も実らぬ程で あった。貞行は山と積った負債も困窮生活もまだまだ従来の儘であったにもかゝはらず、 住民達に鱒をとらせ、その売上金を施して救ってやった。貞行の養魚に関する苦心並に 湖畔の住民に対する救恤の事は、辱くも天聴に達し、明治四十年四月二十二日貞行に対 して勅定の緑綬褒章御下賜の恩命が下った。

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