鹿友会誌(抄)第四十四冊
特別発刊「鹿角出身産業家列伝(第一輯)」
 
△和井内貞行氏
 
 十和田湖開発の大恩人 和井内貞行翁
  養魚の端緒
 十和田湖の水は東岸の子ノ口から流れ出して奥入瀬川となり、終に太平洋に流れこむ のであるが、子ノ口から約一粁米下った処に、高さ約九米余の銚子滝がある為、魚道の 開鑿(明治三十三年)以前は、川魚が遡って湖中に入ることは出来なかった。
 十和田支山の全従業員は米穀、野菜の類は附近山越しの農村に求めたが魚類は能代か 青森県の八戸に仰ぐより外に道はなかった。然るにその何れに向っても奥羽地方にはま だ汽車の便の全くなかった時であるから、生魚は念に一度も湖畔にくることはなく、干 物、塩物を得ることさへ容易でなかった。
 偉人貞行の脳底には常に「鮮魚を湖畔の人々にあてがってやりたい。」といふ希望が 宿ってゐたが、施すべき策の無いのに苦しんだ末、日夕眼前に見る十和田湖の利用を考 へざるを得なかった。
 乃ち彼は養魚経営の案を立て、之を知人や同僚に相談して見たが、何人も一笑に附し て顧みる者はなかった。しかし彼は一度決心したことは貫徹せねば止まない気性であっ た。事こゝに至っては彼は独力事に当る外はないと固く決心した。
 かくして彼は自分の俸給の幾分を割き、大湯村で求めた鯉六百尾を湖水に放流した。 時は明治十七年の秋で、彼は二十七歳、養魚事業の端緒を開いたのである。
 時の鹿角郡長小田島由義氏は活眼達識の人であった。大いに貞行の計画に敬意を表し、 翌十八年十和田小学校の開校記念として、一千尾の鯉を十和田湖に放流し、以て一つに は世俗の蒙を啓き、尚一つには彼を激励してくれた。定めし彼は千歳の知己を得た喜び を禁じ得なかったのであらう。
 その後も彼は藤田組の社員として鉱山事務にいそしみつゝ、一方に於ては毎年鯉、鮒、 岩魚、金魚等を放した。しかし放たれた無数の魚の群は、底知れぬ十和田湖のどこにど うしてゐるのか、ちっとも姿を見せず何年か過ぎて行った。
 
  六年目の秋
 麻は焼く湖上に舟を漕ぎだしては、もしや、魚の姿でもとのぞくが、水晶のやうにす んだ水底に、水虫や、腹の赤い「ゐもり」が時々姿を見せるばかりで、一尾の魚も見る ことが出来なかった。
 はじめて上をはなしてから、ル九年目の秋がめぐって来た。貞行は三十二歳になって ゐた。湖につき出た岩の上に立って、今日もぢっと水面を見つめてゐた貞行の姿に、通 りかゝった無知の住民は「此の広い湖に僅かばかりの魚を放したとて何にならう、今に 神罰が下るに相違ない。」とて彼を冷笑するのみであった。
 
  度し難き無恥の人間
 ところがその年であった。一人の炭焼が宇樽部通過の際、波間に躍る鯉を見た。
 『ワァ鯉だ!』
 炭焼はおどろきと恐ろしさに大声をあげた。魚は住まないと思はれてゐた十和田湖に 大鯉の姿を見たのである。貞行の苦心は無駄でなかった。ひろく深い湖のどこかで、見 事成長した魚類が岸の近くに廻ってくるやうになった。
 厚顔無恥の人間ほど度し難いものはない。人々は貞行の苦心なぞおかまひなく、我も 我もと崎を争って網をうち、ヤスで突きさして魚をとの始めた。
 かく濫獲せられては、折角放養した魚類も絶滅するは必定と気を揉まざるを得なかっ た。しかし彼はまだ湖水使用権を得てゐなかったから、其の捕獲を禁止することは出来 なかった。
 然るに明治二十六年十月一四日に至り、秋田、青森両県知事の連署で十和田湖の使用 権を許可した為に養魚事業の基礎が漸く確立したわけであるが、彼は小坂鉱山勤務を命 ぜられた為、湖畔を離れて小坂に移り、そのため十和田湖に於ける密漁は著しく多くな って来た。
 よって明治二十八年から湖畔に請願巡査を置き、尚湖畔数箇所に常備の看守人を配置 して密漁を防ぎつゝ一方に於ては魚苗の放流を継続した。

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