鹿友会誌(抄) 「第四十四冊」 |
△民間鉄道工事請負の元祖 = 町井勝太郎翁 = 町井勝太郎翁は九十ニ歳の恒例を以て、旭川市二條通一丁目の自宅で昭和十六年五月 十日朝、彼の思ひ出多き一生を終り、大往生を遂げたのである。彼は北海道の鉄道建設 工事の先駆者で大功労者である。 彼は嘉永三年、アメリカの提督ペルリが伊豆の下田に来て幕府の眼を覚ましました、 あの年に南部藩士として旧南部領の小都会なる花輪町に生れた。幼にして父を失ひ、十 三歳の時に裃を着用して領地内農民の訴へを捌いたといふことである。 其後維新の革命となり大政は奉還され、武士階級は崩潰の一路を辿りつゝあった。然 も南部藩は賊軍の汚名を被り、武士は凡て禄を失ひ、彼も裸一貫となって自身と自家と を新たに興さねばならぬ苦境に直面したのである。 彼は盛岡に出て英語と化学とを学び、、二十五歳の頃工部省鉱山寮に登用せられ、明 治八年九月、大葛鉱山在勤を命ぜられ、化学技術員となった。明治十五年、昇進して小 坂鉱山に転勤を命ぜられ、益々技術練磨の生活に精進したのであるが、坑道内に居るこ と久しきに渉り、漸く健康に支障を生じたので、明治十八年、工部省所管の鉄道局へ転 勤申付るらゝの恩典に浴し、更生することを得たのである。 同年九月二十日付鉄道局辞令を以て現在の信越線軽井沢、直江津間鉄道建設従事の旨 仰せ出され、翁の鉄道技術員としての生活が、此の時に始められ、家族の人達は故郷花 輪町に告別して長馳駆東京に移転し、麻布四ノ橋脇に住居を定めたのであった。 鉄道布設事業は即ち、土木事業であって測量に依って作製した図面を以て算出する工 事費予算の適不適は此の仕事の致命点たることは論を待たない。翁は此の事務の処理を 誤りなく遂行することに努力し、工事請負業者をして乗ずるの余地なからしめ、鬼技師 の綽名を取ったのである。彼は乗馬を購ひ、常に疾駆して工事進歩の監督を怠らなかっ た。 翌十九年東京在住の家族を信州上田に移し、二十二年には軽井沢直江津間の鉄道布設 工事は無事完了した。この四ケ年間は翁の生涯中最も緊張した時であった。鉄道の技術 家としての入門時代であったにも拘らず大なる輝いた成功を納め得たのは緊張の賜では あるが、その原因を内的に見たならば、町井家の血液中に流れてゐる創造性の萌芽が、 翁の脳裏に著しき発育を遂げた為であると言ひ得よう。 |