鹿友会誌(抄)
「第三十九冊」
 
△噫! 佐々木彦一郎兄
 一郎さんの学的功業を伝へることは、私のよくする処ではない。殊に私が満洲に去ってから 十三年にもなるので、其の近業は詳かにしてゐない。大正十五年三月、東大地理学科を卒業してから、 一郎さんは引続きその教室に残り、一高、明大、日大に教鞭を執る傍ら、日本地理学会の 常務評議員として、或は高等学校地理教授要目原案調査委員として、斯界に寄与する処が多かった と聞いてゐる。単行書としては「人文地理学提要」「経済地理研究」の外二、三に止まらず、 日本地理学会の機関紙「地理学評論」に執筆された論文、地評紹介等は五十五扁を数へてゐる さうである。其他「地理学」「地理教育」「民俗」「旅と伝説」等の諸雑誌、講座、叢書類への 数多の投稿は、番気高い一郎さんのペンに依って、忘れ難い興奮と感懐とを人々の胸に残して ゐるのであらう。
 
 一郎さんは、全国高等学校の教授要目を決めた。そして一郎さんの意図したものは、日々全国の 俊才に学びとられてゐる。一郎さんは、地理学と民俗学とを結びつけた。人々は今其の新しい 研究方法に従って、広き視野を前にして研究を進めてゐるのである。
 
 一郎さんは、学者であるよりも詩人であるよりも、何よりも鹿角を愛する人であった。一郎さんは、 口を開けば鹿角を語った。東京も仙台(二高)も呉(中学)も、一郎さんには他人であったが、 鹿角は一郎さんの心のふるさとであった。
 
  クニビトハソノ故ノ
  イカナルカヲ知ラザレド
  ワガ郷土カヅノニ
  アマリニモ心ヒカルル − (鹿角民俗誌の自序)
 
 それは「山河美しき郷土」に対する一郎さんの讃美の歎声であった。「其の美たるや」、 一郎さんにとっては「殆んど神秘的なものである」。
 山崎直方博士が激賞されたといふ一郎さんの卒業論文「鹿角盆地の経済地理構成」「盆地衆落の 機構に就いて」の如きも、一郎さんの、やるせなく胸に溢れる郷土愛の生んだものであらう。
 
 「佐々木先生は、卒直に唯物論の優位を承認してゐたが、併しそれを露はにはせられなかった」、 と或る学生が一郎さんの憶出を書いてゐる。私は、あのアインシュタイン博士が来朝した時、車窓の 博士の直ぐ前に、数多の学生の最前列に、立ってゐた一郎さんの姿を忘れがたく心に描き乍ら、此の ペンを擱く。
 そして、昭和十一年四月十日午後二時、その誕生日四月十三日を待たずして、享年三十六歳を 以て逝った、なつかしい一郎さんの面影に瞑目合掌する −
(一九三六、一一、三〇、山王ホテルに於て)

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