鹿友会誌を紐とく
第三十八冊(昭和11.1)
 
△「秩父宮殿下の宿舎を拝命して 阿部六郎」
 
△「鹿角に対する感想 町井正路」
 明治十一年に花輪で生まれたが、幼児に小坂へ、九歳で東京へ出たので、郷里の事は、 記憶は貧弱である。今迄三回しか花輪へ帰っていない。一回目は十五歳の時、二回目は 二十二歳の時、帝大在学中に卒論の為十和田を見る事で行った。第三回は最近、墓参で 今迄二回の帰省の際はまったく念頭になかった。
 
 先祖の菩提所は恩徳寺、墓は裏山の急勾配の高い所で、岩舘洞扇様に何故山の中腹 にあるかとたずねた。「身分の高い方だから」と答え、「最も大切な位牌として代々の 住職に引き継ぐ。寺が全焼した時、昔の何代目かの町井左平治様が「若し寺の再建立に」と 植えられた沢山の杉を使った。その先見性と貴篤さに感謝している」。
 私はこの話によって、故郷の為に残りの生涯にて尽くしたいと思っている。
 
△「農業余録 奈良野人朗」(別掲)
 
△会員動静 東京 澤出茂雄
 雪の季節となって鰰、新米のタンポ、切り漬、ナンバン漬、氷豆腐等々懐かしい思い 出が尽きません。
 
△〃 諏訪冨多
 高天原は十和田高原にあり、イエスキリストは八戸湾より上陸して十和田附近に来れ りとの伝説に付、研究中。
 
△〃 諏訪三七郎
 昨夏家族一同と十日ばかり大湯に帰省しました。曾遊の十和田にも参りました。揺籃 から見た森、月、丘、草原等々、郷土の自然の超現実的、魅了的感銘に依って、自分の 心は再童心に迄誘はれましたが、いつしか鹿角よ平和であれ、一切の醜き争闘よ去れ、 偽瞞と軽薄の現代的色彩を脱却して、そのかみの清らかな情熱と叡智の若き姿に返れと、 ほんとうに子供の様に唯単に祈っている自分を発見しました。
 
△故小田切様を偲ぶ 小田島軍八
 「郷里を持っている事に対して感謝の念が湧いてくる」
 「鹿角の人は、人柄は正直で善良で、公平に見ても誠によい長所を持たれているが、 度量のせまいところは短所でないでしょうか。同郷の者で他所に出て成功している者に 対しては、もっとあたたかい眼を以って迎えて欲しい。当人は何んとも思っていないの に、頭が高いとか、威張っているとか、昔はこうだったとか、何んとか言って白い眼を 以って見る傾向がありはしないか。それでは太鼓持ちみた様な気持ちにならなければ、 国に帰れないわけで、如何にも窮屈な気がします。それでいて、物を頼む時丈け同郷人 を売り物にする。因習にとらはれないような、もっと明朗な郷里になって欲しい ものですね」といわれた。
 
△「柴田春光氏追想 福田豊四郎」
 柴田氏の作品の中には、郷土の種々の生活風俗がありのまゝに語られるのでした。軒 下の干大根、干柿、店に並んだ林檎その他の品々まで、刻明に一つ一つの物が愛を持っ て描きわけてありました。
 ……柴田君は、鹿角の模型を作ろうとしました。
 ……愛する我故郷鹿角が、部分的にまた季節を変えて発表されるのでした。
 人々はその作品を通して鹿角を認識し、憧れを感じて行きました。ありのまゝの詩情が、 彼の画面から人々を魅了しました。
 ……僕も柴田氏の繊細な感情と、郷土を愛する純情な話手になりたい、尚歌い手にな りたい。
 
△例会総会
 例会は昭和十年七月で二百五十一回を数える(同日第四十九回総会)。
 二百五十二回例会は、新橋「秋田」で切りタンポ会
 
△会員名簿賛助員二十三名、
 正員、東京附近百三十名・地方百三十八名・郷里百七名

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