鹿友会誌を紐とく 第三十七冊(昭和10.1) |
△巻頭 五十周年近し 我々はこの機に際して、一大飛躍を試みたい。鹿友会舘の建設、育成事業の大拡張、 会員倍加運動、会誌発行回数増加等々、二年後という勿れ △「怪我の功名 川村薫」 杉村楚人冠が八幡平で落馬し怪我、そのおかげで鹿角の景勝・風物・民情が朝日グラフ に数回連載され紹介された。 △「台北に於ける鹿友会 大里武八郎」 台湾には五名会員がいる。会員外鹿角出身は二名、その他出身女子も数名いるそうだ。 皆んで集会をしたが、目の前にあるベコ鍋よりも、郷里のうまいもの(そでこ等山菜、 はたはた等)の話しに満腹し、次回は女子も含め切りタンポ会でもやろうと思う。 △「先輩百年後の鹿友会 月居驪川」 内藤湖南先生(逝去)を始め、川村顧問、石川中将、青山・湯瀬氏共々年老いて、来る 会には参加出来なくなってきた。これは、当然の先輩異変であるが、ここに先輩百年後 の鹿友会に思いをはせる。各顧問百年後は、唯一純友愛の情を凝集力として会の存続生 命として更正するであろう。 鹿友会は今や斜陽に立っている。晩鐘は鳴らんとしている。しかし、変化に順応して、 結束と統制を維持して、先輩吾人に伝えられた郷土懇親機関としては、稀観の古き歴史 五十年を有する鹿友会は、変遷によって衰退させたくない。 △「気の永い話 − 三十年がゝりで入会 − 村木政吉」 始めて知ってから、入会まであれやこれやで三十年かかった。第四十八会総会に出席し、親しく 諸先輩の声亥(亥偏+欠)(せいがい)に接し、大変嬉しかった。 三十年を考え、スローモーションぶりの我ながら失笑を禁じ得なかった。 東京生活三十年、それに比べれば三分の一に過ぎなかった。その故山の思い出の広さ、 深さ、あゝ懐かしの鹿角の山よ、川よ。 △「帰郷の感想 小田切善六」 拾幾年振りで故郷に帰ってみた。鹿角一円が公園の様で、誠に美しい。吾々はこの自 然の公園で幼児を過ごしたから、思えば老後は必ず故郷に帰り、骨を埋めようかと思っ た。しかし、現在の鹿角の産業、又は事業、従来の習慣の事を考えると、もはや吾々の 住める所ではない。せめて私の子孫を何かの方法で永久に故郷に縁故をつけて置きたい ものだ。 △内藤湖南氏逝去、昭和九年六月二十六日七十一歳 △会員名簿賛成員二十三名、 正員、東京附近百二十名・地方百三十五名(この内二十九名は中国朝鮮台湾)・郷里百 七名 |