鹿友会誌を紐とく
第三十一冊(昭和3.12)
 
△「贈従五位石川伍一君略伝」
 明治二十七年没二十九歳、毛馬内出身
 清国諜報活動海軍大本営付訳官
 石川達三の伯父にあたる。
 
△「石川伍一君遺稿二篇」
一、講演準備(明治二十五年鹿友会に於ける合席上)
 明治十七年、鹿角の会を催したことがあった。石田八彌氏、内田清太郎氏、湯瀬禮太 郎氏、他五名位、これが鹿友が相会した始めともいおうか、私が清国にいる時、余弟 (石川漣平)より鹿友会誌第二冊(号)を郵送されてきた。大変喜びかつ万里の異域に いて、直接皆んなと会っている様な気持ちがしたものである。
 
一、明治二十六年
 郷友相親しみ相扶くるは、国家の政教上に大なる益を与える。交わるに信をもってし、 身を謹み、互に善を勧め、邪に近づかしめず、学を励み、窮を救ひ、扶助提携すれば、 国家に対して忠良なる臣民を造就するなり。しかし、この事を全国に広めよえと思わない 方がいい。小団体においても、意見の相違や衝突などもある。親交を永遠に維持しよう としたなら、すべからく相互に関係を密にならしめるにしかず。
 (鹿友会の主旨そのものの大切さを認め、方法論を書き送っている)
 
△「陰謀の鹿角「眞田大古事件の記録」 石川六郎」
 明治十年、西南の役に関係して起こった事件。政庁顛覆を企てたが露見した。
 首謀者は来満神社(三戸と鹿角の境)の別当、三県下に同志を募り、八戸地方に秘密 結社を作り、起こそうとしたが未然に発覚、下斗米與八郎が偵知し報告した。その手 記が「岩手県政物語」に載っている。
 
 下斗米與八郎の手記(略)
 
 桃源のような山中の一盆地の鹿角にも、こんな義憤に燃え、反抗の血が沸いて、秩序 破壊の徒党を策源地であったという事について、複雑な感情が昂揚してくる。
 (この陰謀事件の顛末を調べて、正確な記録を作る篤志家の出でんことを望む)
 
△「感想と消息 山口猪祐」
 二年振りに帰省した。自治体である町村が、余りにひどく政党政派の争にわづらひさ れていると感じてきた。町村自治体に政争を之事とするような政党の余弊は、排撃しなければ ならない。政治は、公正に行わなければならない。
 町村の人は、一部を除いて政治に無関心である。政治は、大衆の手によってなされる 様、教化して行かなければならない。町村吏員や学校職員の責任大である。
 
△総会例会
 第四十二会総会、昭和三年六月、銀座三共ビル、参会者四十八名
 
 夏期例会八月、毛馬内仁叟寺、内藤湖南・大里武八郎帰省、出席者五十六名
 
 第二百三十五会例会十二月、大手町警保長官舎、出席者四十四名
 
△会員名簿(昭和三年)賛助会員三十四名、
 正員、東京附近百十名・地方百二十名・郷里百二十二名

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